1日目
007 《2004年8月28日》

 午前3時に東京を発つ。南から大きな台風が接近しているが、北に張り出した高気圧に押さえつけられて、動けないでいる模様。そのため、太平洋側は大雨にもかかわらず、新潟は晴れるという予報だが、大丈夫だろうか。たしかに赤城高原あたりの霧雨も、関越トンネルを抜けるとあがり、路面も乾いている。振り返ると谷川連峰は濃いガスに覆われているが、右手前方に見えてきた八海山は稜線までくっきりと見え、そこに朝陽があたっている。天気はなんとかもちそうだ。
 水無川沿いの林道を車で出合まで入る。見上げるとサナギ滝の落口がちらっと見える。ずいぶん高いところに見えるわりに、距離は近い。ものすごい傾斜だ。まるで沢ぜんたいがひとつの滝となって、ここまで一気に駆け下っているかのようだ。
 身支度を整え、6時30分に入渓する。入ってすぐの10メートル滝で、まず岩の感触をたしかめる。岩はスラブ状で硬く、よく磨かれている。すぐに沢は左に曲がり、小さなゴルジュとなって、奥に4メートルのチョックストーン滝を落としている。直登するかどうかちょっと迷うが、小さく巻けそうなので、右岸の灌木帯に上がり、懸垂で沢床に降りる。
降りると、視界いっぱいにカグラ滝が飛びこんでくる。(007)早朝のまだ青白いしぶきが、すっきりしたスラブの斜面を洗っている。80メートル二段。下段は手ぶらですたすた上がり、斜面がきつくなったところで、瀑水右手にザイルを延ばす。ところどころブッシュに支点を取りながら、2ピッチで落口へ抜ける。(010)このあたりで、緊張からだろう、出合からなにかに急かされているようなそぞろな気分にも、ひと心地ついてきた。
小さな滝をいくつか越え、沢が左へ曲がる小広場は、左岸側が半円形にえぐられたすばらしい岩の要塞になっている。ブロックが散乱し、右岸側には、崩壊したスノーブリッジの橋脚が、朝陽に照らされて屹立している。それにしてもでかい。7階建てのビルくらいの容量だ。(021、022)橋脚のすぐ右の岩稜を登り、小滝を二つパスする。(024)登りきったところで振り返ると、峡谷のはざまに水田の緑がまぶしい。足もとは露岩のへりで、右下のゴルジュは奥に20メートルの滝を懸けている。右岸側は左岸側よりも傾斜がきつく、このままブッシュに突っこんでも大高巻きになりそうなので、ひとまず足場を拾いながら沢床にクライムダウンする。
010
021 022
024
029  20メートル滝はやはり登れず、そのまま沢を横切って左岸に取りつき、高巻きに入る。(029)灌木の隙間から谷底を覗くたびに登れそうもない滝がつづくので、かなりの大高巻きになったが、サナギ滝の全貌が見わたせるあたりから、懸垂で沢に降りる。この懸垂はザイル1本では僅かに足りず、高坂はひいひい言いながら登り返し、細引きを繋ぎなおしてやっと降り立った。
 高まる期待をおさえながら、サナギ滝へつづく小滝を登っていく。小滝といえども、釜はどれもくろぐろと深い。泳いだところで瀑流部分はつるつるなので、へつり気味に越えていくが、一カ所どうにも一歩が出ず、浜田は残置ピンにシュリンゲをかけて越えた。(038)
 さて、いよいよサナギ滝の基部についた。見上げると、V字のスカイラインのはるかな窪みに、最上段の瀑布が小さくかすんで光っている。ずっと見上げていると、首が痛くなるくらい高い。天から落ちる水。この滝を見上げれば、きっとだれだってそう呟きたくなるだろう。(039)
 まず一段目はノーザイルで右岸のスラブを登る。二段目はかぶっていて、瀑水が宙を舞っている。(043)右岸のブッシュ沿いから取りつき、右へ斜上する。登るにつれて高度感が増し、草を握る手にも力が入る。適当なテラスでロープを出し、三段目のスラブを直上する。途中から滝が大きく右へ湾曲しているので、3ピッチ目は正面の壁が立ってきたあたりから、水平に右へトラバースする。すばらしい高度感だ。(046)ふたたび瀑水に近づき、4ピッチ目は出だしが少しかぶっていて、マントリングぎみにずり上がる。落口へ抜ける最上段左横のジェードルは6メートルほどだが、傾斜がきついうえにスタンスも乏しく、リードする高坂も難儀しているようす。凹角から左側壁にスタンスを移し、バランスで越えると、ようやく200メートル5段のサナギ滝は足下におさまった。(053、055)
 緊張を解かれた四肢に、晩夏のやわらかい陽ざしが心地よい。ここで昼食にし、ラーメンを茹でる。サナギ滝の上からは、大きな釜をもった小滝がつぎからつぎへとあらわれる。このあたりの谷底の侵蝕は、ほんとうに見事だ。両岸は草付き混じりの、直線的なV字だが、沢床はU字形に露岩がえぐられ、そこに滝と釜が連続的にはさまっている。釜はまるでスプーンでえぐりとったようにきれいに丸く、そして深い。きっとはるかな年月のあいだに、無数の雪崩や土砂が、こうして谷底を磨きあげたのだろう。特異な地形と特異な気象が、ぎりぎりのバランスで彫琢した、無比の造形作品である。
038
039 043
046 053
055
058  小滝のうちのひとつに、釜を泳いで取りつく。側壁にはい上がる一歩がつるつるで、水中に足を浮かしてあれこれスタンスを探りながら、なんとか立ち上がる。すぐに、岩盤を斧で叩き割ったような逆V字のゴルジュになり、胸までつかりながらそろそろと入っていくと、奥に10メートルのネジレ滝を懸けている。(058)ここはロープを出してゴルジュ内の右岸に取りつき、ブッシュまで1ピッチ延ばす。ホールドが丸くていやらしく、けっこう緊張した。そのまま灌木帯まで直上し、10メートル滝をもうひとつ高巻いて、馬の背状のブッシュを、草を掴みながらクライムダウン。その先のトイ状の4メートル滝は泳いで取りつき、瀑芯をザックと両手の突っ張りで越える。(060) 060
067  さらに小滝をへつりや小さな巻きで越えるうちに、大滝80メートルが見えてくる。小さな河原でザックを下ろす。時刻は4時ごろ。水面から2メートルばかりと低いが、天気はくずれそうもないので、岩棚の上にタープを張る。(067)大滝が間近に見えてよいビバーク地だが、焚火をしようにも流木がぜんぜん落ちていない。そういえばこの沢は、樹林帯がかなり上まで後退しているせいか、8月の晴天に遡行しているというのに、樹木や木の葉が息づくすがすがしい香りがただよってこない。ときおり頬に風を感じても、堅牢な岩肌をかすめたやや無機質で乾いた風が、のびきった芝生のような草をなびかせていくだけだ。
 それにしても今日は一日よく晴れてくれた。見上げる滝のさらに上に、澄みきった青空がひろがっているのがなによりよかった。夕暮れどきには、琥珀のウイスキーを舐めながら、大滝が赤く染まっていくのを眺める贅沢も味わった。8時すぎにはシュラフカバーにもぐる。(068)
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