枝沢

 二俣で15分ほど休憩したのち、右俣に入っていく。ものの10分も行くと、2段10メートルの滝に出会う。杉田川で最後の滝だ。下段は左岸から取りつき、段差のところで左岸から右岸に移り、上段は流芯のすぐ左を登っていく。
 この滝を越えると、あとは上流を横切る旧登山道に注意するだけだ。左右をきょろきょろしながら進む。進むにつれて、両岸の藪がうるさくなってくる。沢床はいよいよ赤い。なにしろ沢を横切っているのが、いまはまったくの廃道で、「気をつけないと見落とす可能性は十分ある」らしい。(塚本功さんの報告による)
 ときどき立ち止まって前後左右に目をこらすが、それらしい痕跡は見いだせない。両岸から迫りだした熊笹がトンネルをつくっているところで、赤い布が一本、沢の真ん中に垂れさがっていた。「ここか」と思ってすかさず見まわすが、両岸ともに熊笹が鬱蒼と生い茂っていて、道の片鱗すら見いだせない。半信半疑でここも通りすぎる。
 そうこうするうちに、とうとう左岸から顕著な枝沢が、滝を落として入ってきた。あわてて地形図を見ると、旧登山道が横切っている地点から500メートルほど遡ったところに、それはあった。しまった、やはり行きすぎたか。ではあの赤布が? でも道なんてあったか?
 地形図では、ここから安達太良山頂まではまだずいぶん距離がある。しかも白山書房の『日本百名谷』によると、源頭はかなりの藪漕ぎを強いられるらしい。戻ってまた廃道を探しまわるのも億劫だ。枝沢は左岸上部の尾根に付いた登山道のあたりに消えている。迷わず枝沢に入ることにする。
 ガレを這いのぼって、滝を見上げる。2段10メートルくらいか。巻くのも面倒なので、直登する。右岸から取りつき、段差で若干の飛沫を浴びながら、左岸に移る。落口のあたりがぬめっていて、少し緊張した。これを越えるとすぐ、5メートルほどの滝。ぜんたいにぬめっている。けっきょく皮肉なことに、この枝沢での二つの滝が、今回ではいちばん滝登りらしい手ごたえのある滝だった。
 この二つを越えるともう滝もなく、あとは赤い沢床のゆるい傾斜をたどる。いつのまにか水も消え、足もとから窪みがなくなったと思ったら、いきなり猛烈な藪漕ぎがはじまった。
 わが身の丈いじょうにすくすくと育った熊笹が、四方を囲んで密生している。かき分けようとすると、そのしなやかな弾力で腰のあたりに数本絡みつき、前へ進ませまいとする。もう尾根にいるはずだがとあたりをうかがっても、視界が悪いうえに、この尾根はのっぺりと平坦で、台地のうえにいるようなものだ。地形図をひろげても、いまどこにいてどの方角へ向かえばいいのか、見当がつかない。熊笹越しに稜線が見え隠れして、安達太良山頂とおぼしき岩山のピークも見えるが、まだ遙かに遠い。とてもこのまま熊笹を漕いで直登できるような距離ではない。
 枝沢に入ったのは失敗だったか、という思いが一瞬頭をよぎるが、それでももう登山道の近くまで来ていることは確かなのだ。焦ってもしょうがないとばかりにザックを投げ出し、メロンパンを囓る。やがて、小さな地崩れで、赤土の斜面が剥き出しになっているところに出た。斜面の先端まで駆け登る。下方の視界がひらけ、そこに明瞭な登山道が走っているのを確認した。やれやれ、助かった。
 登山道に出たのが1時30分。正味50分ほどの藪漕ぎだった。けっきょく、廃道から登ってくるのと、時間的には大差なかったようだ。登山道はすぐにゴンドラ駅から上がってくる道と合わさり、そこからはハイカーの皆さんといっしょに安達太良山頂をめざす。




くろがね小屋




ナナカマド

 2時10分、安達太良山頂着。硫黄の匂いがきつい。空は曇っているが、ガスは出ていないので見晴らしはきく。磐梯山が優美なスカイラインを描き、その山すそに、猪苗代湖の光る湖面がわずかに顔をのぞかせている。右手は吾妻連峰だろう。残念ながらわたしがその名を知らぬ山々が、にぶい光に霞んでいる。
 風が冷たいので早々に山頂をあとにして、くろがね小屋へ向かう。稜線の北東斜面を巻いて、直接小屋のまえに出る道がある。出だしがわかりづらいが、斜面は火山特有の岩礫に、矮小な灌木がところどころに生えているだけだ。どこを下っても大過ない。やがて赤ペンキが目に入り、顕著な水平歩道にみちびかれる。
 ふたたび静けさが戻ってくる。
 稜線を見上げると、逆光でくろぐろと澱んだ岩の瓦礫を背景に、ひともとのナナカマドが左右いっぱいに枝を張り、真っ赤な実を輝かせていた。写真を一枚パチリ。
 途中一カ所、硫黄をふくんだ沢を横切り、30分ほどで谷あいのくろがね小屋に着いた。ここの湯がまたいいのだ。五〜六人も入ればいっぱいになってしまう小さな木の湯舟なのだが、乳白色にほどよい熱さの温泉で、庇のむこうにひろがる斜面の紅葉が借景になっている。洗い場などはもちろんない。
 週末なので小屋のなかは登山客で賑わっている。厨房をのぞきビールを一本、ついでに入湯料を払う。時期が時期なので行動中たいして汗もかかず、喉も渇かなかったが、5時間以上歩いたあとのビールはやはりうまい。首のあたりのこわばりがほどけるようだ。ザックをかきまわして着がえを取りだし、風呂場へ向かう。
 ふくらはぎのあたりに泥がこびりついていたが、なに、かまうものか。山小屋の風呂なんだから。そのまま湯舟に浸かって、湯の煙をおもいきり吸いこんだ。余談だが、さきに湯舟に浸かっていた一人が、AACの先輩の高野信久さんに、とてもよく似ていた。まさか本人では、と思ってまじまじと見つめてしまったほどだ。それにしては、やけに若い。20代なかばくらいか。でも考えてみれば、わたしが頻繁に高野さんにお目にかかっていた頃、高野さんは20代なかばだったはずだ。見間違えたのにも理由があるわけだ。高野さん、ごめんなさい。おたがいに年をとったということですね。
 余談ついでにもうひとつ。あとから、やはり20代なかばくらいの、黒人の若者が入ってきた。桶からざぶんと湯を浴びて湯舟をまたぐ。そのとき彼の黒い肌が水をはじいてぴかぴかに光り輝いていた。だからどうということはないのだが、その黒光りする肌の美しさといったら。思わず息を呑んだわたしでした。
|