「半世紀」 二題
 
 
                              小川 法章 
 
  2001年古希を迎えて明けた一年を検証してみました。
よかったこと悪かったことに分類すれば特別取り上げることは無い、健康面からみれば脳梗塞も何ら別状なく酒は毎晩定量頂いているし体調はすこぶる良好、難を言えば一段と忘れっぽくなり記憶くらい当てにならないものはなくなってしまった、囲碁の方は突出した強さも発揮できず、お陰で碁友を減らさずに済む程度というか愛される碁打ちとでも言うか、そんななかでことしは七十年の人生のなかで小生にとって特筆したいことが二件あったので取り上げてみました。

其の一 5月10日札幌で同期会があったのを機会に兼ねてよりもう一度礼文島へ行ってみたいと思っていたことを実現しました。利尻・礼文と駆け足の旅でしたが礼文島船泊は昭和27年三月以来50年振り、スコトン岬に立った時はかってニシンの漁場だったこの海が牛乳を流したように真っ白になりニシンがあふれていたことを思い浮かべ感無量でした。最近では海全体が真っ白になるなんていうことは水産学部の学生でも想像がつかないことだろうし、又濱の若い者でも年寄りの昔話くらいにしか思えないかも知れません、ニシンの大群が来て海が真っ白になる時のことを『郡来る(クキル)』ということも最近知りました、そして網おこしのタイミングを誤ると網の目がつまり揚がらないこともあるそうです。スコトン岬のみやげ物店で話をしたところ網元の坂野さんはすぐ分かりましたがご主人は既に他界されていました。
思えば、大学2年末、昭和27年3月(1952)当時まだ函館に赴任されて間もない安楽先生から『小川君、礼文島のニシン場へ行ってみないか、行くなら紹介してあげる』との話にすぐ飛びついて行くことにしました。稚内から小さな連絡船(200トン位)に乗り北の海の猛烈なうねりの中を3時間、礼文島船泊へ向かいました、東京生まれの小生にとっては大変な冒険です、当時は東京の人間が礼文島のニシン場に行くなんて想像もつかないことでした。船に乗るとすぐ小さな容器を渡されます(船酔い対策用)なんとも心細い限りでした、稚内港を出港し突堤を回るとすぐ猛烈なうねりに呑み込まれます、先発の船は既にうねりに呑み込まれて船影は見えません、暫らくするとうねりの頂点に達した船がポッカリと現れる,現れては消え、消えては現れる其の自然の凄さに仰天しっぱなしでした、今様に言えば「スゲーナーホントカヨ」のひと言でした、間もなくそんな余裕も無くなりひたすら枕にしがみついて到着を待ちわびたものです。やがて船泊に着き上陸した時はホッとしましたが足が地に付かずフラフラでした。
後日 網元の坂野さんは旧制の北大農学部水産学科におられた坂野栄市さんのご実家だったことを知りました、小生は坂野栄市さんにお会いしたことがないので直接話しが結びつくことはありませんでしたが先日坂野さんの姪に当たられる中村典子さんからご連絡を頂き札幌にお住まいの坂野栄市さんと電話でお話しする機会を得、安楽先生の同期生で今尚お元気に札幌ふ化場関係のお仕事をされておられる由承りました。
その後昆布漁と二度に亘って訪れた礼文島船泊は思いでも深く小生の人生に強く印象つけられ心に残りました。50年振りの礼文島、実に半世紀振りと思うとなんとも表現の出来ない感動を覚えました。

其の二 8月の始めの頃、導入してから半年もたつのに未だ利用度の低いパソコンで自分の個人情報を検索したら何が出てくるのだろうくらいに考えて「小川法章」と入力し検索したところ、何と麻布中学山岳部のホームページが現れました、それも中学三年生少年時代の写真入りです、これにはビックリしました、麻布中学・高校時代の友人は卒業してからほとんど付き合いがなく友人と言っても年賀状友達くらいの連中が数人いる程度でした、それというのも大学を出てから就職した後数年間は出張生活が長く東京にいる事はほとんどなく北海道内を転々としていたことが多く麻布の友人のみならず東京の友人たちとも会うことが出来ずどうしても疎遠になりがちでした、たまに東京に戻った時は仕事上の話もあり仕事に関係のある友人との付き合いが主体になりました。
麻布学園山岳部のホームページを広げると中学・高校時代の山行き記録がぞろぞろ出てくるのに又ビックリ、ホームページで1948―9年の写真が全くないので探しているとのこと、昔の記録をほとんど持ち合わせない小生なのにこれまた偶然とでも言うのでしょう高三時代(1949)の仙丈ヶ岳・甲斐駒ヶ岳の写真が19枚黄色くなって出てきました、それからメールの交信が始まり写真を送ったところ大変喜ばれ貴重な資料として早速ホームページに加えられました。12月8日山岳部の忘年会に出席することができ昔の仲間たちから大歓迎を受けたことは言うまでもありません、酒を飲み酔いが回ってくると山男たちの歓迎の仕方も手荒くなり参りました。小生にとって楽しさこの上ない忘年会でした。
忘年会出席者の中に武藤光盛君という東京都庁水産課の職員がおり聞くところによると東海大学水産学部で元田茂教授(北大時代の小生の恩師)の教室の卒業生で卒論を東京水産大学の大森信教授(元田研究室の後輩)の指導で仕上げたとのこと 又、東京都の水産課では山田尚良さん(元田研究室の後輩)に大変お世話になったとのこと、世間は狭いなということを実感しました、今後はMTD会(元田先生の弟子たちが集う会)にも出席して貰おうと考えています。
何とこれまた50数年振りにインターネットのお陰で半世紀以上前に戻れました、人生って面白いですね、古希を迎えてまだなにが起きるか分かりません、これからも残る人生を充分楽しみたいと思います、何か本当に嬉しくなるような一年でした。
以上二題取り上げてみました。

 
     

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