[chronicles]



1946年度〜1948年度をふり返って

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中村太郎


[1947年の回顧からのつづき]

この辺で友人の話をしよう。暮もおしつまって氷川から大菩薩へ行ったことがあった。川久保の部落に入ると、よほど渋柿が多いとみえて軒並に皮をむいて吊してあった。宿に着きやがて暗くなると、あらかじめ目星をつけていた干柿を失敬しに物置の屋根に登って行った男があった。彼が桜井晴二である。間が悪い時に仕方がないもので、ちょうどその時宿の人が物置きに用事があってやって来たので、桜井は真白に霜の降りた屋根にしばらくいる破目になった。我々は炬燵にあたりながら窓越しに彼がよく見えた。炬燵にあたっていても寒い晩だった為か、干柿の影にうずくまっている桜井の姿が今だに印象的である。桜井は突拍子もない男だったが皆から好かれていたのも、はしつこそうでいて何処か抜けていたところに原因があったのかも知れない。彼は大菩薩から帰るとすぐ、志賀高原ヘスキーに出掛けたきり宿屋で心臓マヒで死んでしまった。

馬場のことも一言触れておきたい。四年で一応皆上の学校を受けたが、馬場が一高へ入った以外は見事に落ちた。四年から天下の第一高等学校へ入学したのであるから、彼は非凡であったことは確かだ。岩燕の三号にPAと云う人が「さわらび」と云う恋愛コントを書いている。如何にも私がモデルである様に上手に仕組まれている。今から思えば馬場のことだ、私が仲々原稿を書かない腹いせにいたずらしたのだろう。馬場は白状しないまま麻布を去ってしまったが、彼以外にこれを書ける人はいなかった筈である。一高へ入ると共に麻布に顔を出さなくなってしまったが、逢えたら嬉しいと思っている。

私は麻布の山岳部の生活を通して数こそ少ないが友人を持つことができた。桜井や馬場は今はいないが、小田と小倉と云う無二の親友を得ることができた。ものの順序として今度は小田や小倉のことを書かなくてはならないのだが、この二人について語るには本当に我々は若過ぎる。友人としての関係がどんどん発展している時に想い出など書けたものではない。自然な気持で筆がとれるまで、彼等の想い出は書くことを差しひかえる。


この部報が山岳部の内部的な存在にとどまらず、多少なりとも社会性を持つならば正直に書き過ぎたと思う。だが、戦後と云うあの特殊な時代は二度来ないだろうと思って、恥をしのんで想い出を書いたのである。だからと云って、吾々の山登りをただ終戦直後だったと云う理由で容認しているわけではない。矢張り冷静に批判されなくてならない。この批判は現役の諸君がすべきであると思う。

あんなむちゃな、情熱のおもむくままの山登りが、ここまで成長して来たことを思うと確かに感無量である。かつて学んだ母校に、自分達の作った山岳部が脈々として息づいていると思うと、幸福感があふれて来るのである。(1958記)




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