[chronicles]



1996年度をふり返って


正直、何を書けばいいのか分からない。

私は、今回当時のことを思い出そうとして、いかに多くのことを忘れてしまったかに愕然としている。鮮やかに残っているはずだった記憶も、今は断片的なものが残るだけである。

95年度、一見うまくまとまっているかに見えた山岳部の人間関係も、96年になるころには、歪みが生じ始めていた。その主な原因となったのが、リーダーの安達と下級生の目的意識の違いである。

安達にとって、部活動は楽しみの場であると同時に成長を目的としたものでもあった。部員全体の技術、体力、精神面を進歩させることで、究極的には最盛期の山岳部を復活させようとしたのだ。その困難な目標を達成するために、当然他の部員に対する要求水準も高くならざるを得なかった。

一方、下級生にとって部活動とは楽しむためのものであった。彼らには、何故苦しい思いをしてまで、山に登らなくてはいけないかが理解できなかった。コースを決める際にも、出来るだけ安全で楽なものを選ぼうとした。夏合宿で、彼らが穂高に行くことに反対したのには、こういった背景があった。

私は、安達と下級生の板ばさみになり、自分がどういったスタンスをとればいいのか分からなかった。下級生を鍛えなくてはならない、という安達の考えは至極真っ当なものである。しかし、自分も体力が無く、山行の度に苦しい思いをしていた私には、後輩の意見を頭から否定することが出来なかった。

山岳部は安達という強力なリーダーシップがある間は、部としてまとまっていた。だが、海外留学による彼の不在によって、それは一気に空中分解することになる。それを防ぐはずだった私は、後輩の前で語る言葉を持てなかった。

部活動もサボりがちになり、夏合宿の目的地も二転三転した。合宿直前には、以前から関係がギクシャクしていた中二と中三の争いが表面化する。その結果、中二二人が退部することになってしまった。

私は、無力感に囚われていた。後輩からの信頼を失い、これから部の運営をどうすればいいのかも見えなかった。結局、夏合宿後の部を後輩に任せ、引退することにした。早い話が、逃げたのだ。

私が二学期の間にしたのは、文化部連合関係の事務処理だけである。

その後、山岳部は部活動も行われなくなり、自滅した。だれも山に登りたがるものがいないのだから、当然だ。

私は、山岳部はこのまま潰れるものだと覚悟していた。ところが、思わぬところから朗報が飛び込んできた。以前に部を辞めていた中二の藤井が、山岳部に戻りたいと言ってくれたのだ。そこで急遽冬合宿を企画し、一緒に登ることにした。人間関係に煩わされず、純粋に山を楽しむことが出来た。

その後、山岳部は無事に現在まで存続している。現役時代に私を支えてくれた顧問の先生方と、山岳部を立て直してくれた藤井には、いくら感謝しても足りないが、改めてこの場でお礼を言いたい。

ありがとうございました。(山本真一郎)
写真は奥穂高から霞沢、焼岳、乗鞍。






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