岩燕

tome IV - 巻頭言


 

寸言

近藤啓吾





衆鳥 高く飛びつくし
孤雲 ひとり去って閑なり
相看てふたつながら厭はざるは
ただ敬亭山あるのみ
(独り敬亭山に坐す)

いふまでもなく李臼が掲子江のほとりを放浪してゐたある日、敬亭山に遊んで作ったものである。敬亭山は、今の安徽省宣城の郊外にある。折から日ぐれの山中、鳥も何時しかねぐらに帰ってしまひ、空に浮んでゐた一片の雲も靜かに去っていった後、次第にタもやにつゝまれてゆく敬亭山を、いつまでも独り見つめてゐる李白の姿が、我々の眼の前に浮んでくるではないか。


兩人對酌すれば山花開く
一杯一杯また一杯
われ醉ひ眠らんと欲す君しばらく去れ
明朝意あらば琴を抱いて来れ(山中対酌)


一読意味は明らかであらう。これもまた李白の作である。山花の下に相対して既に陶然たる両人。無論その一人は彼李白である。日はいふ ー オイ君。わしは睡気を催して来たからここで眠らうと思ふ。君もお帰りにならぬか。明朝また対酌のお気持が起ったら、琴を抱いて訪ねて来てくれ ー 李白を知らぬものは、白のこの言葉を、或は傍若無人なりと驚くかも知れない。しかし李白を知るものにとっては、飽くまで自然の子であった彼の、最も自然の言葉として、うれしく聞くのである。

このほか、李白の詩集を繙くものは、この中から、山といふ語や、山に関係のある言葉を数多く拾ひ出すことができるであらう。そしてこれは、彼がこよなく山を愛してゐた証拠であるともいへよう。

しかし、これ等の詩に見える山々は、もとより千古の雪を戴いた、臼皚々たる高山でもなく、巌に巌を重ねた、峨々たる峻嶺でもない。試みに「山人」という熟語をロずさんで見るがよい。この言葉から連想される山といふ概念は、緑の木々に蔽はれ、渓あり雲あリ、鳥鳴き花開く、懐しい山である。そして俗世界を脱してこの山中の別天地を楽しむ人々こそ、自らも山人と称し、人からもかく呼ばれたのであった。東洋に於ける、山といひ山人といふ言葉は、かくの如き独自の気分持つ。この意味の「やま」を理解することは、東洋の哲学を、文学を、そして美術を知る上での最も大切な問題のーつではなからうか。果然、彼李白も、碧山に桃花流水を喜ぶ山人の一人であった。


兩余に問ふ何事ぞ碧山に栖むと
笑って答へず心おのづから閑なり
桃花流水 杳然として去る
別に天地の人間にあらざるあり
(山中、俗人に答ふ)
 


しかし李白に於ける「やま」を、この意味だけに限定して考へてはならない。危い山、高い山、鶴さへも飛び越せぬ山、猿さへも攀ぢ登れぬ山、青天に登るよりもむつかしい山 ー かの蜀道の艱難を、彼が夢幻の靈筆を駆馳して、ほしいまゝに詠じたものに「蜀道難」の一篇がある。蜀道とは蜀(四川省)にはいる道のこと。当時の都であった長安から蜀に入るためには、今の陝西省と四川省との界に、いく重にも横ってゐる険阻な山々を越えねばならない。この詩は、長い句、短い句取まぜて四十三句。凡て二百九十四言からなる長篇、当時安禄山という武将が謀判し、天子(玄宗)がこの乱を避けて蜀に遁れたのを傷んだものであるとか、人心のたのみにならぬことを、蜀道の険阻に托して詠んだものであるとか、そのほか色々と彼がこだを作った動機について穿鑿されてゐるが、そして東洋の文学の一特徴として、風刺は大きな要素なので、それ等の説はいづれも理由があることとは思はれるが、私はこゝではこの問題は一切ぬきにし、原詩中の面白い部分だけを、書き下しにして掲げて見よう。非常に難解ではあるが、声をたてて幾度も 読みかへされるならば、諸兄の山行の体験から、必ずや同感される俉得される所多からうと思ふ。()の中は老婆心から私が補ったものである。



蜀道難

ああ、ああ、危いかな高いかな
蜀道(に上ること)の難さは青天に上るよりも難し
(むかし)蚕叢と魚鳧と(の二人の王が)
(この蜀の)国を開きしより何ぞ茫然たる
爾来 四万八千歳(なるも)
秦塞と(こゝと)人煙を通ぜず(秦塞は長安の西南にある城の名)
西のかた太白に当りて鳥道あり
以て峨眉の巓を横絶すべし
地崩れ山摧けて壮士死し
然る後、天梯 石桟 あひ鉤連す
(中酪)
黄鶴の飛ぶも なほ過ぐるを得ず
猿(さる)度らんと欲して攀援を愁ふ
青泥 何ぞ盤盤たる(青泥は蜀道中の山の名)
百歩 九折 巌巒をめぐる
参を捫し井を歴て仰いで息を脅し
手を以て膺を撫でて坐ろに長歎す
(中略)
連峰 天を去ること尺に盈たず
枯松倒まに卦絶壁に倚る
飛湍 瀑流 爭うて喧豗
厓を砯ち石を転し万壑の雷
その険 かくの如し
ああ、爾 遠道の人

なんすれど(かく遠く険しき処に)来れる

剣閣 崢嶸として崔嵬(剣閣は蜀道中の険しい山の名。 崢嶸も崔嵬も高く険しい形容)
一夫 関に当れば万夫も開くなし
(以下略)

 

今㐧一句㐧二句(ああ…難し)いかにも李白らしい豪快な書き出し。先づこの二句で読者はこの長詩にすっかり引きつけられてしまふ。「蚤叢」以下「鈎連す」までの八句は、この蜀道が開かれた伝説を詠みこんだもの。「黄鶴」及び「猿猱」の二句は李白らしい表現法。

特に「青泥」以下「長嘆す」までの四句に気をつけてほしい。百メートルも行くと岩角でまがり道になる。また百メートル行くと、またまが り道。かくしてめぐりめぐる度ごとに、山は次㐧に高く険しくなる。やがて夜がおとづれる、しかし旅人は休まうともしない。満天の星。 しかし下界で見た星とはちがって、すぐ手が届くやう。参も井も漢土の星座の名である。この星をつかまへやうとし、或はその星の輝いてゐる 辺を通りすぎて漸く頂上にたどりつく。空を仰いで一息。心臓はドキンドキン(脅)と激しく波うってゐる。この胸を撫でながらホーッ とため息。マダ〳〵目的地は遠い。

「連峰 天を去ること尺に盈たず」これも山でく経験する実感。

突然足下から起るゴウ〳〵の水音。渓流は岸をかみ、石を転ばし、瀧となって落ち、万雷軣けるかと疑は れる。橋も見当らぬ。あの流をどうして渡ったらよいのか ー 「飛湍 瀑流 爭うて喧豗、厓をうち石をまろばして万壑の雷」この句を読みかへしながら、私はフト一学期の終りに講堂で上映した、冬の北アの一場面を思い起した。

瀧廉太郎作曲の「箱根の山」 ー 箱根の山は天下の険 ー あの懐かしい歌に出て来る「一夫関に当るや、万夫も開くなし」が、この蜀道の中の言葉であるのも、記憶に止めておいてよからう。



今私は李白の詩の中から、山の詩のいくつかを拾ひ上げ、それにもとづいて思ひ出づるまゝを述べて来た。しかし山の詩を作ってゐる漢詩人は彼だけではない。王維、杜甫、韓愈、欧陽修……誰の詩集を繙いても、山に関係のある作品を探し出されよう。そしてその詩の内容も、無論 千差万別といへる。

しかしそれは、おのづから、こざかしこき人の世を脱して、自然のうちに吟じようとする山人の詩と、山の大きさ高さ険しさ、そしてそれを越えゆく時の苦しさ楽しさ驚き喜びを歌ったものとに大別できよう。

最後に一言加へさせてもらはふ。嘗ての山人といふ概念は、東洋の思想芸術の重要なる要素であったが、今日、アルプスにいどむ諸君等の、夢が熱が誠が、新しき世の新しき山人の内容となって、新しき哲学に、文学に、そして美術に、生命を与へられることを信じてやまない。




近藤啓吾 (1921-2017) 儒学研究家。

1940年麻布中学校卒業、1947年より1971年まで麻布学園教諭。1972年、学園紛争を機に開成学園に転じ、1974年より金沢工業大学教授、金沢工業大学明倫館教授、国学院大学講師などを歴任。著書に「浅見絅斎の研究」「山崎闇斎の研究」「儒葬と神葬」など。麻布教諭時代の綽名はヒヨコ。



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text by Keigo Kondo.

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