tome IV - 合宿報告3


 

冬の八ヶ岳西面

昭和23年度冬季合宿
成瀬杉雄




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私達が冬期登山を目的として、その歩みをふみ出したのは、三年前に遡る。スポーツアルピニズムを戴いて、着々と歩んできた。私達は今回の八ヶ岳の合宿を終へて、一応は完成したといへよう。

冬期登山の目標を八ヶ岳においたのは、一昨年十一月新雪におほはれた八ヶ岳の縦走を試みた時だった。八ヶ岳といふ、まとまった山塊は、北アルプスに比べては、スケールは小さい。だが、三千米になんなんとする、この山塊は、私達の貧弱な技術から言っても、装備から云っても、適当であったし、八ヶ岳は登攀の対称[ママ]として、十分にその価値を認めることが出来る。

私達は、この八ヶ岳を目指して、一昨年の十二月の富士、又昨年の三月の木曽駒、四月の富士、八月の八ヶ岳偵察、十一月の南ア、十二月の富士、と、一歩一歩その段階を経てきたのである。

この合宿は大きな眼で見た場合、成功したと云へよう。それは、私達の前に述べた様な準備もあるだらうが、最初、七人くらいの参加を予想してゐたのが、迫るにつれて、どんどんへり、結局私達四人になってしまったのであるが、この為に、同程度のレベルを持つ私達が、後輩の指導といふことを離れて、登攀一つに専念できたことも、一つの重大なる原因なのである。しかし、これはあくまで結果論であって、私としては、麻布学園山岳部がより向上する為に、少なくとも現在のリーダー諸兄位には、参加してもらひたかったのである。下級部員の参加を見なかったのは、今に至るも、遺憾とする所である。

期日

  • 昭和24(1949)年1月4日〜1月11日

隊員

  • 中村太郎
  • 小田薫 
  • 成瀬杉雄 
  • 小倉茂暉



赤岳(撮影:1961年)


1月4日

22時15分の汽車で、青山学院高等部山岳部キャプテン、田中氏の見送りを受けて勇躍東京を後にした。



1月5日 曇

茅野(4:30-7:10)〜穴山(7:40-7:45)〜柳沢(8:00)〜農場(10:00-10:30)〜製材所(13:30-14:00)〜行者小屋(17:00)

汽車ではよく眠れた。「さあ張切って行かうぜ」と、茅野の駅に降り立ったのは4時半である。穴山行きのバスは 7時10分に出る。チッキの荷を整理する時間は15分あった。

どんよりと曇った空には、小雪さへ舞ひ始めて、夫々十貫目の荷物を前にした、我々の前途は暗い。穴山でバスを降りると、丁度高原農場に帰る人があったので、一緒に行く。荷はおそろしく肩にこたへるし、空身である農場の人は早い。おまけに霜柱の立った道は、ふみしめやうとすると、ずぶっともぐる。農場についた途端、私達はどっかりと道端に腰を降してしまった。

農場から製材小屋までの道は、ありすぎる程ある。私達の選んだのは、水道沿いの、雪に飾られた素晴らしくロマンチックな道だった。製材小屋に着いたのは13時30分、丁度昨日で登攀を終えた、明峯の人が大勢居た。これからは二時間もあれば行けるだらうと、30分ばかり休ましてもらふ。

ここから道はやうやく傾斜を加へた。雪は思って居た程はなく、ラッセルの苦労など味あふべくもなかった。流れは30分程でつきた。中行者小屋附近で、積雪は30糎位。ここには立枯の木と倒木が多かった。荷が重いせいか、行者小屋までは三時間もかかった。この小屋は、夏偵察に行ったときには、非常に立派であったのに、天井と四本柱だけ、といってもよい程めちゃめちゃだった。人夫が下る時、こはして行ったそうである。万が一を思って持って行った天幕が役にたった。私達はがっかりして、ラジュースで簡単な夕食をすませると、すぐにシュラーフにもぐり込み、天幕をかぶって寝てしまった。



1月6日 曇

気温 中-8度 外-14度(7:00) 中+10度 外-12度(21:00)

昨日はあまりの小屋のひどさに、荷をほうり出したまゝ寝てしまったが、朝起きて見ると、整備すれば、どうにか一週間くらいしのげるだらうし、製材小屋に下ってしまへば、行動の時間が、三時間乃至四時間無駄になる。幸にして天気も良くないから今日一日、小屋の整備をしやうといふことになった。板の間に小屋にあったむしろをひき、くぎでとめて天幕を張った。からうじて名残を止めてゐる、隅の羽目板のたなに、食料を並べた。こうして午前中にすっかり整備をしてしまへば、せまいながらも楽しい我が家である。晝食後はのんびりと、シュラーフにもぐりながらトランプをしてゐた。おりしもヤホーといふ声。私達の他には二三人より入れないだらうと思うと、昨年あたり、しきりに方々の山岳会が、八ヶ岳に入る様なことを言ってゐたことを思ひ合せて、困惑しないわけには行かなかった。幸にして来た人は一人だったが、破れ靴にサブザックといふ、勇しい姿である。私達がこの合宿を行ふに当って、いかに装荷に心を用ひていたかと思ふと、苦笑さへ浮かんで来た。

たき火は絶対といってよい程燃えつかなかった。夕食は温度を高める意味で天幕の中で行った。中の温度は10度位までも上り、すっぽりとシュラーフをかぶれば、すぐに心持よい眠りがおそって来る。



1月7日 吹雪後曇

気温中+15度 外-12度(21:00)
天幕(7:00)〜肩(8:00)〜西壁上のピーク(9:00)〜行者小屋(9:40-10:00)〜中赤のコル(11:40)〜アミダ岳(12:50-13:00)〜中赤のマル[ママ](14:30)〜天幕(15:00)

一回も眠をさますことなく、四時まで、ぐっすりと寝つた[ママ]。天幕内の温度は -8度、シュラーフにも天幕にもびっちりと霜がついてゐた。手をふれるとばらばらと氷片が落ちてひやりとする。仕度には三時間もかかった。行者小屋沢の右俣をつめて、西壁に取着く。昨日来た人は、一人では心細いから私達のパーティーに入ることを希望したので、最後から二番目に加へた。尾根すじは風当りが強く、その上眺望もきかない。五人と云ふパーテー[ママ]は、行動の敏活さをさまたげた。私達のリッヂは、南峯と北峯との間から落ちてゐる尾根から出たものではなかったらうか。私達は最初のピークで完全に行き詰ってしまった。少し下った所から、右にトラバスしながら、南峯に直接つき上げる尾根を登れば、行けさうだったし、私達の詰ったピークを、無理に左にまいて、もう一つ向ふのリッヂを、直接に北峯につき上げれば、行けないことはなかったかもしれない。とにかく、半分盲目的な行動をとることは、無謀だと思はれたのでひき返した。行者小屋に着いたのは9時半。天気は悪いが、まだ時間は早い。コルまで偵察の意味で行かふといふことになって、行者小屋を出たのが10時。少し引き返して、中岳沢に入った。右俣を行けばアミダと中のコルに出る。これは赤岳に行く普通のルートである。私達は思ひ切って左俣を行った。相当に急なルンゼの途中に、中岳の北稜と言はうか、きりたった岩峯をもって終ってゐるリッヂは、とっつきに快適なチムニーを持って、私達の登攀欲をそゝった。アイゼンをきかせて、50度程のつめを上りコルに立ったのは11時。このルンゼは尾根道に出るには、最短の距離である。急なだけに、春ともなれば、ゴルジュの両岸若しくはコルより、相当に大きな、湿潤雪崩が予想される。

コルにて、早大生の死体を発見した。苦しみぬいたものの姿だった。パーテー[ママ]は、夫々に、自分の身にひきくらべて、無常感を抱いたことだらう。しかし私達はいたずらに、センチな感情にひたって居る余裕など、ないはずだった。私達には、ただもくもくと、やうやく烈しくなった風雪の中を、アミダ岳にたどらねばならない義務があったのである。風当りの強い為に、氷雪は、容赦なく、ヤッケの口から吹きこんだ。無我夢中で中岳を越え、アミダ岳に着くも、休む間もなく引き返した。まつげについた雪は、氷りついて満足に目は開けられなかった。若しもこの様な状態が長く続いたら、顔面はひどい凍傷にかかったらう。顔をおほふ様なものゝ必要を、痛切に感じた。中岳のコルをかける様におりて、天幕についたのは、15時頃である。小倉は荷物をまとめて下山した。中村も死体発見をしらせに降りて行った。たき火は、どうした調子か、快適に燃えた。ぬれた靴や靴下を乾かして、暖かい食事をした時は、ほっとした。雲は山の側面に沿ってぐんぐん上って行き、暮れ行く空には、星の光さへ見出された。明日は快晴だらう。赤岳へ、赤岳へ、私達の希望は、燃える様だ。中村が帰って来たのは19時頃。21時床についた。天幕内の温度は15度まで上った。




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text by s.naruse. photo by s.mishima (1961).
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