岩燕

tome IV - 合宿報告 7


 

丹沢主脈縦走記

中村彰宏


概要:

  • 日時:1953年3月25日〜27日
  • 場所:丹沢主脈
  • メンバー:
    • リーダー・記録 中村彰宏(高二)
    • 佐藤信安、桐谷晃二、桜井周作、西久保、森、長谷川和男(中三)



3月24日

前日の終業式の日に参加者全員部室に集合し打合せをした。

3月25日

曇後雨。新宿(7:30)〜大秦野(8:40-9:40)〜バスにて蓑毛着(10:05)〜ヤビツ峠小屋(11:15-19:10)〜大山山頂(19:55)〜ヤビツ小屋(20:45)

二十五日朝七時三十分発の小田急々行に乗るべく定刻前に皆集合し、あまりかんばしくない天気を気にしながら出発した。同日の夜行で仙丈に行く神原君と内藤君が見送りに来てくれた。

一時間ほどで大秦野に着き、バスに乗る筈であったが、連絡が悪かったので、やむなく歩くことにした。駅前のバスの事務所で帰りのため西野々からのバスの時間を聞いてさっそく出発した(八時五十分)。

駅前より五分程で大通りにぶつかり左に行くべきところを右へ行ってしまひ二十分程行ってどうも様子が変なので地図を見ると来た路が間違っているのに気が付き、あわてゝ引き返した。この頃より小雨が降り出した。駅までもどってバスの時間を見ると調度良いので蓑毛迄乗ることにした。先程の間違ひはトレーニングだとあきらめて、せめてもの気やすめとした。九時四十分発のバスで二十五分程で蓑毛に着き、すぐ歩き始めたが、先程の雨も幸いバスに乗っている間に止んでいた。蓑毛橋の所を河にそって右へ入って少々行くと又しても降り出した。途中で休んで雨具をつけさせ出発した。ヤビツ峠小屋へ向ふ途中近道らしき所を長谷川と桐谷が行ったが、道が違っていたのだらうか、その後一向に我々とは出合わなかった。しかし我々が先にヤビツ峠小屋についてから十数分遅れてもとの道を引き返して来た。始めの予定ではこの小屋には寄らぬはずであったが、雨足がひどくなったのでやむを得ず小屋へ入った。昼飯を食って着物を乾して雨の小降りになるのを待ったが一向にその気配すら見えず、時々スコールの如く大粒の雨がおそって来てすっかり小屋にとじ込められてしまった。霧が雨で消されると時々ニノ塔が見えるだけである。尚雨は次第に激しくなる一方なので如何ともしがたかった。小屋には我々一行の外に逗子開成高校の小泉君一人と他のパーティの四、五人が居た。小泉ん君等は我々が小屋に着く少し前にニノ塔方面に行ったが雨と霧になやまされて引き返して来たとのことでついに彼等は塔ガ岳へ行くのは断念して帰ることにしたらしい。我々も思案したが、ついに皆私の案に賛成して一日待つことに決心し小泉君に一日送れるむねの電報をたのんだ。即ち私はこう考へた、せっかくこゝまで来たのにむざむざ引き返すのは残念だし、又次は何日来られるか判らぬのだから是非ともこの機会を有効に使ひたひと欲し、予定を一日延ばして、その間のゆとりを利用して今夕又は明朝に大山に上り又明日の夕方には塔から鍋割山の方へも行けるだらうと考へたのである。初めは皆決心に迷ったが、ついに皆この考へに従った。しかし一日延ばしたため食糧事情は非常に苦しくなって来た。午後は皆でトランプで遊んだ後、皆の荷物を全部出してもらって、今後の食糧の割当を色々と考へた。そして大体まとまったので、それを各々食べる時によって分けて持たせ、且つ、程平均の重さにしてやった。この様な事は私の今までの経験ではやらなかったことなのだが、この様なことを必要な時がある事を痛感した。明日、明後日にそなえるために夕食は軽く飯を食ってあとはお菓子などでおぎなった。

食後七時十分に西久保を留守居として時間を利用して大山に登ることにした。雲は低く月は出てゐるがすぐかくされるので道は暗く、且雨あがりのため非常にすべるので歩きにくい。山頂近くで又霧がかゝって来た。四十五分で頂上に着いたが真暗なのと寒いのですぐ小屋にひき返すことにした。帰路もすべるので登りと同じ位い時間がかゝった。夜は十時三十分頃床につき毛布一枚で寝たが、なかなかねられず、夜半すぎて非常に寒くなり、ほとんど朝迄寝られなかった。


3月26日

快晴。起床(5:30)〜朝食(6:45)〜出発(7:45)〜三の塔(9:05-9:35)〜鳥尾山(10:00-10:10)〜行者岳(10:25)〜新大日岳(11:30-12:00)〜木の又大日岳(12:15)〜塔ヶ岳(12:55-14:10)〜金冷シ(14:15)〜鍋割山(14:45)〜金冷シ(16:40)〜塔ヶ岳(17:00)〜夕食(18:30)〜就寝(20:20)

二十六日。今朝私は四時頃から寒くてねられなかったのでウツラウツラしていて、五時三十分、二、三人と一緒に起きた。今朝は昨日にうって変った快晴であるので、一日待った甲斐があった。今日の予定では充分よゆうがあるのであまり急がずに出発することにした。七時前後に朝食をすませて七時四十五分小屋を出た。十八分後程で富士見橋わきの登山口に着き、すぐに先へ進んだ。二十分程で菩提との分岐でいよいよそこから登り道となった。快晴のため展望よく、東京、横浜そして関東平野及その平野の突起筑波山等をみながらニノ塔に着き、更に登るにつれて展望はよくなり、ふり返ると左は大島まで見渡せた。三ノ塔では初めて美しい富士の姿に接し、休けいの後、更に進んで烏尾山を経て行者岳をこえ新大日に向ったが、昨夜から腹一ぱい飯を食っていないので、さすがにこのあたりまでくると空腹は如何ともしがたく、自然進度がにぶった。まだ昼にしては早すぎるが、カンパンにバターをつけて食い水は出来るだけ飲まぬ様にした。カンパンも十分ないので、いゝかげんのところできりあげて出発した。

新大日岳、木ノ又大日岳を経て塔ガ岳が眼前にせまって頂上の人の話声が聞こえるようになった。この辺で大いに展望を満きつした。最後の登りを終へ十二時五十五分尊仏小屋へ入った。山頂からの景色はすばらしく富士はもとより東京湾から房総半島、大島、江ノ島と又目を転ずれば近くは丹沢山、蛭ガ岳、及西丹の山々と大倉尾根や鍋割山、大丸山、小丸山、そして今迄歩いて来た表尾根と大山方面、そして遠くを眺めれば南アルプスの雪をいだいた山々と八ヶ岳等、四方八方一望のもとに眺められた。思はず「天気は上々、お山は快晴」とさけびたい気がする。昼食のベン当を食って一時間程して私と長谷川と桐谷、桜井の四人は鍋割山へ行くことにした。他の連中は明日のコース下見聞のため丹沢山迄行くようにすゝめて我々は大倉尾根を下って行った。三十五分程で鍋割山に着いた。頂上の草原で明日のコースの蛭ガ岳方面の山々を眺めている内に風が寒くなってきたので引き返した。返りは空腹のため足もはかどらず途中の草ムラで昼寝をしたりして、二時間もかゝって塔にもどった。既に五時で大部薄暗くなって来た。尊仏小屋には夕方からだいぶ客が増えて我々の他に七、八人居たであらうか。夜食の後桐谷君達は明日のコースは大部時間がかゝると考えていたらしく早く寝ることにした。昨日の寝不足にこりて今日はレスタミンコーワがすいみん薬になると云ふので桜井からもらってねたが、薬が効いたせいか翌朝の五時迄一度も目がさめずに熟睡出来た。


3月27日

快晴。起床(5:00)〜朝食(6:00)〜出発(6:25)〜ヒッタカ(6:30)〜龍ヶ馬場(6:55)〜丹沢山(7:10)〜不動峯(7:42)〜鬼が岩(7:58)〜蛭ヶ岳(8:17-8:55)〜地獄平(水場5分)(9:35-10:15)〜姫次原(10:40)〜水場(2分)(11:10)〜青根村との分岐(11:25)〜鳥居平戸との分岐(11:40)〜焼山(12:45-13:30)〜沢との出合(14:10)〜西野々村バス道(14:30)〜三ヶ木着(16:04)〜与瀬(16:42-16:52)〜新宿(18:05)

二十七日。五時に起き出してしばらくして御来迎をあおいだ。朝食の後(飯は昨日炊いておいた)六時二十五分塔ガ岳尊仏小屋を後にした。五分で日高、更に二十五分で竜が馬場、更に十五分で丹沢山に着きゆっくり歩いていたのでつかれていないので休まずにすぐ先へ向った。十分程下って下りきった所が釣瓶落し、更に登って不動峯まで二十二分、そこより大体平らな道を鬼が岩まで行った時約八時であった。鬼が岩から下って登って蛭ガ岳に着いたのが八時十七分であり、先に中田が居た。桜井は更に先に進んで行ったとのことである。よほど休まずに桜井を追おうとしたが、あまり展望がよいので写真をとるために休けいした。昨日の塔ガ岳のそれにすぐるとも劣らぬ眺めである。四十分程して、その頃迄には後からの者も皆着いたので八時五十五分出発した。蛭ガ岳の頂上と云へば前年来た時はこゝで青木、伊藤、一杉君等と梨をカジッタのを思ひ出し懐しく思った。その時は天気は非常に悪かったので何処も見ることが出来ず帰ったのにひきかえ、今日は何という素晴しい天気だらうと一人喜んでいた。

蛭ガ岳から二十分で地蔵平に着き、そこから五分程の所に水場があるので皆におしえる意味で水飲みに行った。休けいの後、原小屋平、姫次などをすぎ次の水場で五分程休んで青根村との分岐に出た。昨年はこゝを下ったのであったが今度は焼山迄行くので更に尾根伝ひに進んで鳥屋平方面との別れ道に出合ひ、左に進んで十一時四十五分焼山に至る。頂上には桜井が待ちくたびれた様子をしてゐた。姫次以後はほとんど平たんな道を行く分下り気味であるのでほとんど疲れを感じない。亦私の予想通り途中で相当休んだが六時間かゝらずに来た。焼山では主、副食及び菓子類の残りを皆平らげた。一時三十分いよいよ最後の下りにかゝる。四十分程一気に下ると沢に出合ったので、おくれた者を待つ間少し休んだ。二時半であるのでバスが来る迄には二時間以上あるのでバス道路にそって歩き始めた。単調な道を休まずに三ヶ木迄一気に進んだ。一時間半以上歩き通しなので皆相当へたばったが幸い三ヶ木に着いて間もなくバスが来たので三十分で与瀬に着く。与瀬ではすぐに列車に連絡するはずであったが、少し前の駅で事故があったとのことで、一時間以上遅れた列車が着いたので五十分程まって乗車した。汽車はあまりこんでいなかった。一時間十分で新宿駅に着き、六時十分同所で解散した。


<追憶>

今度の山行はうかつにも日程通り進行するものと初めから決めてかゝったので大失敗をした。わずか一日延びただけだが合宿等ではよいが二日行程の山行で(一日目、新宿 - (表尾根)- 塔ガ岳、二日目、塔ガ岳 - 新宿)一日延びたので非常に食糧が困難になった。勿論各自少しずつのよゆうは持っていたが、それでも尚やりくりに困った。

その一例として、一日目の夜、二日目の朝、昼とろくに食わなかったので、二日目は一気に塔迄行けなかったことや、塔から鍋割往復の時、往きは三十分かゝらずに行ったのに、帰りは途中で少し寝たにせよ二時間近くもかゝってゐるのは全く馬鹿げていた。何しろ幾らバンドを強くしめても腹に力を入れても思うように足が動かない。たゞ何となく歩いていたのである。この様な例でも判る様にこの失策は今度の山行が一日おくらしたゝめ快晴にめぐまれた喜びの気持に反して非常に残念に思われる。私の欲を言えば、皆が思うぞん分食って思うぞん分歩けたらと思うのである。しかしこの我々の失敗も或意味で経験の一つとなったのであるからこの様なことは二度と繰返さぬことを望む次第である。


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text by a.nakamura.

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