tome V


 

山の明暗

(1958)

風間昌司(部長 1955-1957)


1977撮影



一. 山の歓ぴ

大正五年七月下旬、寮生約三十名と富士に登った。中学に入って初めての夏休みであった。大宮、今の富士宮の旅館に一泊し、夜の明けないうちに身仕度して出発した。不要の持物は一切そのまま御殿場の宿屋に回送される仕組みになっていた。

愛鷹・呼子岳より富士
その頃は、まことに素朴な山登りであった。装備の材料はすべて麦藁である。わらじを穿き、菅笠を被り、ござを背負って、金剛杖をつく。これ以上の身軽はない。マナスル登山でも科学的装備の軽さが成功の因をなしている。わらじと言えば、今は夏祭りなどで神輿をかつぐ若者の足に、時たま見受ける位のものだが、あれを見ると何かしら郷愁を感じさせられる。江戸時代、東海道五十三次につながるものがあるからであろうか。消耗品だけに、すり切れれば棄てて惜しくない。代りを三足許り腰にさげてゆくのである。英文学者で山岳家の田部重治先生は今でもわらじを穿いて登山すると言われる。軽くて摩擦係数が高く、何か詩があって棄て難い味がある。ござは一時にレインコートとなり、時に絨氈になる僕はずい分小さい中学生で、ござの下から足が出たかどうか怪しい位のものであった。どの山小屋でも何人かの大人たちに頭を撫てられた記憶がある。その当時は、今の様に一列行列ではなく、僕の様な小型は余り登らなかったからだろうか。登るにつれて、喬木が次才に灌木に変り、草原地帯がやがて禿山になって行く有様が珍らしかった。何合目かの茶屋には竹筒をわたって来る清冽な水が音を立てていた。飲んで見ると、喉が痛い程つめたかった。雲がすぐ頭の上を煙草の煙の様に通っていった。九合目で泊つたが、文字通り雑居寝で、明け方誰か石ころを踏む様に僕の頭を踏んだのがいて、痛さが今でも残っている様だ。外に出て見ると、一面に「空の蒼」が拡がっていて、まばゆい許りだった。

頂上では、余程運がよかったと見えて、雲海の遥か彼方に天龍川の上流が見えた。房総半島から東海地方の海岸線も、霞がかつてはいたが、その輪廓を示していた。この素晴らしい景観は三十数年を経た今でも瞼に浮んで来る。今日では、殆ど誰もが、何処へ行くにもカメラをさげて行くので、貴い印象はカメラ任せで、自分の目に映じ皮膚に感じる実感は、カメラを持っているだけに、却って幾分うすらいで来ているのではなかろうか。十枚の写真より心に映じだ一つの感銘の方が貴い気がする。もう一つ忘れないことがある。麓から眺めた富士を見て、もう富士はわかったという人があれば、その人は嘘つきだということである。これは終生の教訓になつた。大宮口で眺めた富士はすっきりと青く澄んでいた。頂上は赤さびた大小の石がごろごろしていて、夢の様に楽しい憩の場でも何でもなかった。それでも、流石に自分の足で、日本の、一番高い地点、三七七六米の高さに達したんだと思った時には、友達同志で肩を組みながら、何やらわけのわからぬことを叫んだ様におぽえている。今日の「やあつ、ほう」の類だったろうか。この歓びは、やがて金剛杖の先端に自分の汗に濡れた手拭を結びつけて、それた石ころの上に立てさせたのであった。その旗は冷たい風になびいて、ひたひたと音を立てた。

一九五四年エヴェレスト山頂に旗を立てたヒラリー氏の姿を映した映画の一こまに接したとき僕は涙が出た。一九五六年マナスルの頂上に立てーた日の丸の旗は、鋭い風にばりばりと音を立てたことだろうと思う。



二. 山の悲しみ

愛鷹・鋸岳(手前)と位牌岳
もう一つ山の話では、弟の遭難のことが思い出される。経験ではなく、聞いた話なので詳細はわからないが、大略はこうである。昭和三年十月の連休日を利用して、弟はすぐ裏の東海道の興津の山に行って来ると嘘を言って、静岡の糸問屋の息子と、愛鷹連山の鋸山横断を試みたのである。参謀本部発行の地図を調べて、「横断出来る筈だ」と計画したのであった。二人共こんなことを計画しそうな、今の高一に当る年令である。ここは、その当時の村人の話では、富士の鷹狩の話にある猪の出る場所で、それまで誰も踏破していない山だとのことである。外人がひとり途中で引返している。弟はそれまで南アルプス二回の山歴があり、地図の読み方、装備には多少の知識があったらしい。位牌ケ岳で記念撮影をしたが、そこで天候はくずれて来た。それにも拘らず、強引に道なき道を地図と磁石を頼りに、草ぼうぼうの山をわけ入つで行った。互に初めのうちは声をかけ合い乍ら歩いたのだが、ガスと寒さと、その上飢えも加わつて、途中で離れ離れになってしまった。そのうちに雨は篠つくように降つく来る。衣服はひしょ濡れになる。もう前にも進めず、後にも退けない。呼び合う声は、すぐに風雨にかき消されてしまう。一寸刻みにはう様に進んで行くと河原に出た。河原の岩かげを見つけると、がたがたふるえる身体で捨鉢な体操を始めた。「えいつ、ままよ」とばかり、衣服を脱いで全身摩擦を始めた。お題目をとなえた。日蓮宗や浄土宗や、キリスト教等の、知れる限りのお題目をとなえた。多いだけ効験あらたかだと確信するかのように、声を張り上げた。そのうち、どうやら身体のふるえがとまったので、リユツクから着替えを出して、それを身につけ、頭を岩の洞穴らしい所に突込んで、横になつた。「生きようと思うから、苦しむのだ。死ぬと思えば、苦しみはなくなる」- そう思った。家族の顔や親者や友人の、あの顔、この顔が次々と浮んでは消えた。生死を超えて、比較的落付いた心境に達すると、やがてうとうととして意識を失ってしまった。

何時間経つたかわからないが、不図目をさました。身体がなまあたたかい。太陽が照っているのだった。起ち上ると、すたすたと歩ける。道に出ると、村の子供に行き遭った。その少年を見るや否や、途端に空腹をおぽえて言った。

「おい、ぼうや、この辺にまんじゆう屋はないか」

この言葉には切実な実感がある。疲労で身体が甘さを要求している。元来、まんじゆうという菓子は、密度が高く充実感があり、すぐに口に入れられるという便利がある。その少年は敗残兵の様な弟を見て、幽霊と間違えたか、一散に跳び去って行った。やがて、或村人の家で食事を与えられ、人心地がつくと直ぐ友人の事が気になつた。早速村人を伴って探査に向った。何時間か懸って友人は見つかつたが、弟の人工呼吸も遂に効をせせず[ママ]、友は遂に帰らぬ客となってしまったのである。



三. 結び

愛鷹・位牌岳
さて、この三月までニケ年の間、僕は山岳部長という責任あるポストについた。何よりも事故がなかったことは僕をほっとさせたけれども、山岳部員が山に入っている間は、常に今述べた,「山の明暗」が頭のどこかにこびりついていて、ラジオや新聞の報道が気になったものである。生れて間もない子供だって、父親の背中によじのぽつて萬歳を叫ぶ。況して血気盛んな冒険を好む少年たちに、山頂に旗を立てさせる歓びは是非味わせたい。その一方には、暗い遭難の場面が父兄の気持になって絶えず胸中をかげめぐるのであった。幸い、エキスパートのOB小倉君、小田君、内田君その他の諸兄の並々ならぬ尽力と、部員諸君の統制ある行動と、学校長を初めとして伊沢、吉川、斎藤斎、佐藤の各先生方の御配慮によって、事なきを得たのは、何といつても幸福であった。登.山は緻密な計画、臨機応変の技術、完全な装備と、更に大切な事には、日頃の鍛錬による不撓不屈の精神と体力があってこそ、可能なのである。マナスル・プームで山はどこも銀座化されつつあると聞くが、それだけにぶらりと下駄ばき気分で山登りする者も出て来ないとも限らない。山登りは身体を張った計算である。是非とも計算して正確な答を導くよう心がけてほしい。幸い、この度へ山岳愛好の士、中畑先生に部長のポストについていただけた事は、一麻布学園山岳部として心強い事でもあり、祝福すべきことである。今後僕もかげ乍らその発展をみまもりつつ、その将来に大いに期待をかけようと思う。



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