tome VIII - AAC50年の歩み 2


 

座談会「AACの50年をふりかえる」(1)

平成8年8月26日


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独特の雰囲気の文化運動部 ーピカピカの装備がズラリー

三島 小倉さんが代表指導委員という制度を作ったのが僕らの中三の頃。学校もOBに任せておけるという考え方で信用されてた。部費も潤沢だったから個人装備も部費で揃えることができて充実してた。部室にはピカピカのピッケルがずらっと掛かっていた。その頃は運動部に複数人っている部員が殆とで、その中で主体が山岳部という者が多かった。登山自体が単なるスポーツではなくて学術的な感じがあったのがこの時代の特長。世の中でそうした学術的な登山が脚光を浴びていて、これを背景に部員が増えた。

近藤 山岳部は文化運動部という風に考えられていて一般の競技スポーツの部とは一線を引いていた。文化祭でも山の雰囲気を出して結構人気があった。

三島 部員の集まりに関しては豊作と不作が一、二年おきだったのが我々の頃。それからさっきから話に出ているザイルワークでは我々の頃から中庭側に降りるのが公認になった。

早崎 消防訓練みたいなもんだ。

三島 そう、それから降りるばかりじゃ面白くないということでザイルを登る練習をした。

近藤 そう、三島が落ちた話。屋上からザイルを下ろすと三階の上の縁に当たるだろう。それでザイルが擦れるのを防ぐためにシャージを当て布にしていたんだが、登ってきた三島がこの当て布の上からザイルを掴んで下まで落ちたんだ(一同爆笑)。

三島 その時は裏側から登っていて、地面のドブ板みたいなやつの上に落ちてクッションになったから幸い怪我はしないで済んだんだが手は大火傷をした。

その他の練習と言えばマラソンばっかりだったね。10キロマラソンコースがあってこれが女学館、英和、山脇と廻るコース。鳥居坂でわざとダッシュしたりしてね。

金沢 40年間同じことをやってるんですね。

三島 まあそうだが当時は週三回やってたんだから偉い。それから年間計画を立てて研究会、検討会、偵察山行、反省会といった具合にとてもきちんとやっていた。偵察山行というのは部費から費用が出た。

近藤 とてもきちんとやっていた。

三島 反省会などにはOBがたくさん来て、細かい報告をしないとイチャモンをつけるんだね。これが良かった。というのは、まずいところは隠そうとするのが人の習いなんだ。会社でも同じ。徹底的に質問をされて失敗とか危なっかしいところが確認されるので、これが遭難の予防になったと思っている。そういう風土というか伝統があった。

近藤 それから必ずOBには合宿に行って来ますという連絡があった。あれは土産をもって見送りに来いということ。OBとの繋がりがあった。

三島 食料の話をすると夏合宿でのジュースと乾パン、あれは辛かったね。苦行という感じ。ところが不思議なもので今では僕は大好物なんだ。家にはいつも置いてある。酒の肴にも良い。しかし当時は昼飯にあれが出てきて坂さんが汚い手で配るとモソモソして食べられなくて参ったね。


三島秀介

小倉 渡辺製菓の粉ジュースを配ったもんだ。それで乾パンをふやかして喰う。

ーところでその頃の燃料はやっぱり薪だったんですか。

三島 いや、近藤さんの時代からはラジウス、ホエーブスかスベアになった。南アルプスではまだ薪でやったけども、北ではもう山では薪は燃せなかった。薪で炊事すると出発が遅れることもあった。飯盒も近藤さんの頃からは鍋に代わっていた。

近藤 話は少々脇道にそれるけども、その頃から山小屋を作りたいなあという話があった。映画会を開いたりして少し金が集まると、こんなんじゃ山小屋は無理だなあとか言って全部飲んじゃったけど(笑)。そろそろ早崎の話を聞こうか。





page 1. 出席者・司会
page 2. 山岳部の始まり - 第一回高尾山行 -
page 3. 山岳部隆盛期へ - 鹿島槍東尾根春合宿 -
page 4. 独特の雰囲気の文化運動部 - ピカピカの装備がずらり -
page 5. 映画上映会、すきやき山行、そして山岳映画撮影合宿
page 6. 一日170円の食費 - 完成直前の黒部ダム -



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