tome VIII - 追悼


 

わが友飯島文男君

(1996)

中村太郎(昭和24年卒)



文男チャン、君が泉下に入られてからどれほどの月日がたったであろうか。ボクは、君が亡くなったことを、今もって現実として受けとめていない。いないといってもせん方ないことなので、いったいどうしたらいいのだろうか。

麻布中学に入学して、ボクらは顔を合わせていたと思うが、ボクが二年になると同時に疎開したので、ボクが君のことをはっきり覚えるようになったのは敗戦後、君が大磯から田園調布のボクの家の近所に引越してきてからである。君の家には、ダンさんというアメリカの将校(?)が繁々と遊ぴにきて、ウイスキー、コカコーラ、ハーシーのチョコレートと、日本人にはひとかけらもないアメリカのカルチャーが横溢していた。エバシャープというシャープペンシルを持っていたし、エスクワイヤーという雑誌を見れば、アメリカのファッションを垣間見ることができた。

君は、四年修了で立教大学経済学部予科に進学する。ボクは、麻布の山岳部で山登りにせいを出す。

そうだ、君と二人で夜叉神峠を越えて鮎差しに下り、北沢をつめて北岳に立ったことがあったね。峠の下りで、ボクは一頭のアサギマダラを捕え、三角紙に入れたが、胸を強く押さなかったので逃げられてしまった。君の大笑いを、ボクはどんなにうらめしく思ったものか。野呂川にかかる吊橋はこわれていて、片側の吊った針金と下の針金がかろうじてつながっている。危ういものだった。ボクが、危うい綱渡りそのものをやっている時にキミは、ゆすっていた。あの時、もし激流に落ちたら、死をもふくめて重大な結果を招いたことと思う。北沢にあった、岩小舎で盛大な焚火を起し、素晴しい一夜を共にした。いい思い出になったね。

初冬の八方尾根から唐松岳、五竜、鹿島槍、と縦走したこともあった。唐松の小舎では君が何かのかけに負けて、一時間も下に水を汲みに行った。八峰のキレットはベルグラが付いて、きびしかった。ボクは、君の荷物をかなり背負ったね。それで、赤岩尾根を下り鹿島の里も近づいて、ボクは、君の大きなリュックを、いったいどのくらい重いのかと、持上げたところ、あまりに軽いので尻もちをついたものだ。ボクは、しゃくにさわって大町まで歩いて行くのに一口も口をきがなかった。今となってはたわいもない思い出である。

清里にある、君の奥さんになった水野さんの別荘に、ボクを呼んでくれたね。そこには水野さんをふくめて、数人の学習院大学の令嬢が勢揃いしていた。ボクは大いに張切って、今の奥さんを仕上めることができた。これは君に感謝している。

清里の別荘には、話の続きがある。君の方から、水野家の土地が何千坪かあるので、そのうち何坪かを貸りて、麻布の山岳部のOB会で山荘を作ろうじゃないかと、提案してくれたね。それとばかりにボクたちは、金を集め、測量をし、さてという時に、君の奥さんからクレームがついた。ボクたちは何人かで君の大泉の家に行って、奥さんから、あの土地はだめですと引導を渡されたものだ。あの時君は、割り合いあっけらかんとしていたね。しかし、あの後、こちらは意地になって金を集め、甲斐大泉に、あのAAC八ヶ岳山荘を建てることができた。もう二五年になる。本年、麻布の山岳部が創部五〇周年を迎えるので、OB会は二五年間、八ヶ岳山荘を中心に活動してきたことになる。君のことを功労者と呼んでいることは、君も承知のことだったと思う。

ライカのM3が、初めて出た時、すぐ仕入れてボクにだしか一〇万円ぐらいで売ってくれた。格安だったと思う。その他に、やれズミクロンだ、エルマーだとライツのレンズも手に入れることができた。リンホフの三脚もだ。君が立教の写真部に入部していたので、ボクも暗室に連れて行って貰い、現像、引きのばしの手ほどきを受けた。今、ライカのM6、R7などを使うと、写真の先生としての文男チャンが思い出される。

一九九三年八月二七日逝去。享年、六三才。


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text by t.nakamura, photo by k.oda
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