那須朝日岳遭難追悼号


 

一九七二年四月十日

(1972)

山岳部部長 平野博志



1972年4月10日11時過ぎ、惰眠を貧っていてそろそろ起きようとしていたところへ下宿の近所の親戚へ電話がかかった。「太田さんという人から」というので、山岳部のことだろうが何だろうと思いながら電話ロペ出る。緊迫した声で太田が「ああ先生、今藤田君のお姉さんからの連絡で藤田達三人が遭難したらしいんです」「えー、他に誰が...」「高松と坂本ですが、峰の茶屋から朝日岳へ向う途中で表層ナダレに会って藤田は自力てはい出し家へ連絡してきたんですね」。突然のことで驚き「で俺はどうしようか?」「それでですね、一応僕んとこをセンターにしますから、高松さんと坂本さんとこへ連絡して下さい。それで15分後に又連絡します」ということで早速高松さんの家へ電話する。おばあさんが出て「家の者は留守ですが、そのことを会社の方へ連絡します」とのこと。坂本さんの家ではお母さんが出て、ややとまどった口調で「どうしたらいいんでしよう。一体大丈夫なんでしょうか?」僕も状況を詳しく知らないけれど、藤田が大丈夫だったので他の二人も大丈夫だろうと思い、「ちょっとわかりませんが、藤田が助かっていますから大丈夫だと思うのですが...、又詳しいことがわかったら連絡します。」などと気安めをいってしまった。「まさか命には...」と思いながらも一沫の不安を禁じ得ない。15分たっても太田から連絡がないのでこちらから電話する。お話し中である。更に5分ほどして太田の方から電話があった。O・Bに連絡していたとのこと。「先生何か用事がありますか?」「いや別に、でどうしようか。学校に行こうか、太田んとこへ行こうか?」「じゃ、僕ンどこへ来て下さい」ということで早速飯田橋へ向う。良く晴れて暑い位の天気である。ついこの間合宿で行っできたばかりの雪に映えた那須の山々が思い出される。一体どの辺でナダレに遭ったのだろう。何とかはい出しているだろうか?「藤田が助かっている」ことばかり考える。

飯田橋から太田君の家までは道のりがかなりある。途中で電話してお母さんに迎えに来てもらう。お母さんを待つ間、学校へ電話する。近藤(昭)先生が出て「ああ、平野さん、今どこ?」「太田の家へ行くところです。大賀先生いますか?」「今ここにはいないが...。生徒が遭難したらしいね。学校へは新聞社の方から連絡があって知ったが、...平野さんは何で知ったのテレビ?」「いや太田からの連絡で知ったんですが、又詳しいことがわかったら連絡します」「そうして下さい」。テレビのニュースで遭難の報道があったらしい。僕は心の中にあせりを感じながら、「遭難」の圧力を、重さを感じはじめていた。「どうも大変なことになって、...弘一は先生を迎えに駅へ行ったのですが、行き違いになったのですね」。太田のお母さんに案内されて家へ行く。そこには既に、今回の合宿で大変お世話になったO・B、中央大学山岳部の林君が学生服姿で来ていた。その行動の速さに大いに勇気づけられながら「で、どうなんですか?」「救援活動は既に始められているらしいですが詳しいことはまだ...。峰の茶屋からすぐのところらしいです」。朝日岳へ行く途中である。合宿で朝日岳へも登っているが、途中ナダレのありそうなところは...といろいろ思い描く。まもなく太田が戻って来、O・Bの矢部君も来る。矢部君も今回の合宿でお世話になったO・Bである。それからまだ連絡のっいてないO・Bなどに連絡したり学校へ連絡したりする。そしてとりあえずこちらから何人か行くことになり僕も行くことにした。山の支度のために一担下宿へ帰る。その途中で森、上領、池谷、小野君らに会う。下宿へ帰ると又太田から電話があって「遺体が収容されたかち、山の支度はいらない。すぐに現地へ行く」との連絡が入っていた。それまで何とか命だけはという希望も何もガーンとふっとんでしまった。「遺体、...遺体、...遺体、...おかしいな、藤田は大丈夫だったのに...」その日10日のあくまでも暑い位によく晴れたもの憂い午後であった。再び太田の家へとってかえし、学校へ連絡する。大賀(教頭)、増島(高松の担任)、武神(坂本の担任)の3先生が現地へ行くために学校を出たということを及部先生から聞く。現役を含めて集まった全員で黒磯へ向う。車中O・Bの福井さんと会う。6時過ぎに黒磯に着き駅の真向いにある黒磯警察で、いろいろ応対していた3先生と落ち会う。署内は、新聞記者などでごったがえしている。藤田にも会う。足がちょっと痛む程度で他は何でもないという。緊張のせいか顔色はやや白い。藤田のお父さんもきていて、皆で夕飯を食いながらいろいろ事情を聞く。夢の中の出来事のようにまだ混乱しているようだった。高松、坂本の両御家族は9時頃車でこちらに着くというので、我々もその頃遺体の収容されている湯本町喰初寺へ向うことにする。その間、とりあえず東京へ帰る者、現地へ残る者、宿泊のための旅館の手配などてきぱきと進めてくれた福井さんをはじめとするO・Bの方々の処置に、何をどうしたらよいのかさっぱりわからなかった僕は大いに助かった。

喰初寺では黒磯警察の久保さん、永井さんが既に棺の中に入っている二人に付き添っていてくれた。お焼香をし、僕は棺の窓からそれぞれ二人の顔をみた。頭に包帯を巻き、血の気はないが静かな顔がそこにあった。まもなく高松のおじいさん、お母さん達が到着した。おじいさんは、棺のふたを開け、「たけのぶ!」と声をしぼりあげ、高松の身体をさすりながら、堰を切ったように涙をあふれさせていた。

そしてクリスチャンとしての儀式を自ら行ない、棺のふたを閉じ、今度はしっかりした落着いた口調で僕達にあいさつをした。僕は高松のおじいさんの率直な態度にうちのめされた感じになっていた。よく考えれば当然のことなのだろうが、高松はこんなにも家族の人達から愛されていたのかと思うと、じっくり話したことも、又話そうとしたことも少なかった僕は、非常に恥ずかしく感じた。ここで一般化などしては申し訳ないが、僕自身が生徒と接する際如何に表面的であるか深く反省させられたのである。

10時過ぎに坂本のお父さん、お母さん達が当着。ここまで車で来て、きっとその間いろいろなことを思い出しながらお気持をおさえてきたことと思われるが、やはり、声にこそ出さないけれどその無念の想いは、僕達にもひしひしと伝わった。御両家ともすぐに遺体を東京へ運ぱれるとのことで、医者との手続きをすませ、11時過ぎに2人は横浜と東京の我が家へ帰ったのであった。我々は山楽ホテルで翌日のお礼についての打合わせをして一泊した。(翌11日の救援謝礼については別稿参照)僕にとって一生忘れることのできない4月10日は、このようにして終ったのである。

僕が山岳部の部長(顧問)を引き受けたのは、去年(46年)の5月頃のことだったと思う。その当時高2の高野と坂村が来て、「顧問の先生がいないと部がつぶれちゃうんですよ」「それじゃちょっとかわいそうだな。でも俺は山なんかまるで知らないよ」「いや要するに名前があればいいんです」などということで安易に引き受けたのである。斉藤斉先生からは、「大変だぞ、荷物はかっいじゃ駄目だ。いざというとき動けないと大変なことになるから」といわれ、又「これを平野ざんにやるから」といって「岩燕V号」をいただいた。立派すぎるほどの部誌である。山岳部の伝統の強さを目の前にみた感じである。又「よほどO・Bとの連絡を密にしないとまずいですよ」とその前まで仮の部長であって、山についてはよく知っている斉藤嶢先生から注意された。僕は若さにまかせて「まあ何とかやりますよ」などと軽く考えていたのである。それでもやるからにはしっかりした部にしたいという思いはあったので夏の八ヶ岳での準備合宿、中央アルプスでの本合宿、冬は暮から今年の正月にかけての冬合宿、そして一年のまとめと,して今回の三月末から四月にかけて那須での春合宿に参加してきた。それまで、何が面白くてあんな重い荷物をしょってわざわざ山になんか登るのだろうという程度の認識だった僕もこの一年間でようやく山の良さというのか、理屈抜きのそういうものがわかりかけてきたところであった。又同時に山の天気の変わり易さなど自然の情容赦のない厳しさも経験してきた。そして今年こそ高松を中心として、藤田、永田、坂本、三品、高野達で山岳部を再建する積もりであったのだ。幸い大学で山岳部現役の林さんの協力も得られそうだし、条件は揃っていたと思う。ただそこに気のゆるみが、安易さが、積年の矛盾が出てしまったのである。

この遭難について山岳部のO・Bの方々には大変お世話になったが、その行動力には驚かされた。遭難のあった日の翌11日には、既にO・B総会が六本木の盧山に於て開かれ50名もの多数が集まりこの遭難についての大まかな検討、遭難費用の負担、今後の対策が講じられた。更に33年卒の三島さん、小林さんが中心となり小委員会が作られ、この遭難の詳しい反省、検討それに基づいた今後の指導体制の確立、O・B会のあり方等が検討されることになった。僕もそこに参加させてもらい大いに参考になったと思う。又山岳部を創立した中村太郎さん、小倉茂暉さんは、葬儀から初七日、四十九日と御両家へ出向かれ僕も同行させてもらったのだが、教えられることが多かった。更に4月26日には、現地(那須)にて、高松、坂本両君の合同慰霊祭を行なってもらえたことは両御家族も大いに慰ざめられたことではないだろうか。これらの事を通じ山岳部のO・Bの方々が、ほんとうに山岳部を愛し、心配されていることを知らされ、もっと僕や現役の方から接触を求めていたら今度の遭難も防げたはずだと悔まれてならない。一方学校側としてもこの遭難について職員会議がもたれ、更に新たに部長会議が開かれて山岳部を含めでこれまでの部のあり方について、様々な問題点が出されたことは有意義であったと思う。現在学校は山内代行の跡始末に追われている状態だが、よりふさわしい教育の現場を創りあげていく中の一環として、これら部活動に関する諸問題の具体的解決を図っていかなければならない。



正直のところ僕は未だに高松と坂本がいなくなってしまって一緒に泣いたり笑ったりすることはもうできないのだという実感がない。おそらくこれは麻布学園山岳部が、再び山岳部として立派に成長するまでは駄目だろうと思う。山岳部が、「山岳部はどうもだらしがない」とか、「ふきだまりだ」とかの汚名をばん回し、「ざすが山岳部である、山岳部員である」というような誇りを獲得し、生き生きした部になってはじめて、高松や坂本を失ったことのほんとうの意味が認識されるだろうし、又同時にそれこそが、高松と坂本が安らかに眠ることのできる唯一の状態であると信ずる。僕は、これを僕の原点とし、名目だけではない山岳部長として、その職責を果たしていきたいと強く念願している。

最後になってしまいましたが、高松、坂本御両家の御両親、御家族の方々に対し、(いくらおわびしてもしきれませんが)心からおわび致します。そしてこれは既に御両家から再三いわれたことでもありますが、二度と再び、そのようなやりきれない哀しみを他の御父兄の方々が味わうことのないように、人間の力には限界があるとしてもあらゆる努力をすることが、御両家に対し僕のあまりにも大きな責任の端をとることであると胆に銘じてこれからの部をやっていきたいと思っています。

一見剛快だが非常に繊細でやさしい心根の持主であった高松、照れ屋でおとなしそうだがいたづらでなかなか強情でもあった坂本、これからの部の成長を(時間は、かかるかも知れないが)見守って欲しいと思う。
そして部の山行の時には一所に登ろうではないか...。

高松、坂本両君の冥福を祈りつつ
1972年6月15日記



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