那須朝日岳遭難追悼号



 

高松・坂本両君を悼む

(1972)

OB会理事長 中村太郎



高松武信君、坂本道哉君が春雪のまだ深い那須連峯朝日岳の山腹で、なだれにあい遭難死してから、すでに百余日たってしまった。麻布学園山岳部・同OB会が両君の追悼集を上梓することになり、私がOB会の責任者として追悼の言葉をのべるのであるが、なにから申し上げてよいものか。

かけがえのないご子息を失われてしまったご両親やご親戚の皆様方のはかりしれない悲しみの様子が頭の中に思い浮び、ともすれば筆もとどこおりがちとなる。深く深く頭を下げて、おわびするばかりである。

遭難事故の第一報を近藤君から受けとった時、「とうとうやったか」「しまった」という自己に対する激しいいきどおりを覚えた。私が高松君と坂本君の顔を始めて知ったのは、生前ではなかった。すでに故人となられて、遺影と対面した時であった。本来麻布の山岳部は現役と先輩の間の結束が強いことが特色であった。私にとって部員の顔すら知らなかったということは、たいそう異例なことである。現役とOBとの関係は、年一回の総会、合宿の報告会、卒業生の送別会、新入部員の歓迎合といささかうるさく感じるぐらい接触があった。私はそういう機会の大部分に出席していた。この慣行が何時頃からくずれてしまったか。

正直なところをいえば、麻布学園にふき荒れた学園紛争の中で、なんとなく足が遠のき、現役の人達との間に溝が堀れてしまったといえる。麻布紛争の評価はさておくとして麻布のOB会の構成をみると、よわいは四十余才から十代まで、二百名近くのメンバーをようするとなれば、考え方の相異、立場の違いはあって当然である。だが、山が好きで、山に登りたいと志す者の集団であれば、OB会が、紛争とは無関係に、現役に対してコミットしなければいけなかったのである。

もともと麻布の山岳部は、教師に山の経験者がみあたらなかったこともあって、OB会に構成された指導委員会の下で部を運営してきたのであった。遭難当時も指導委員会は機能して、指導委員は、真剣にリーダーシップをとっていたことは認めるが、以前の様に、OB会全体の協力体制がとれていなかったことも認めざるを得ない。

中学生、高校生の年齢は、ちょうど精神的にも肉体的にも成長の過程であり、青春前期とでも名付けられるものであろう。こといわば、むつかしい不安定な若者が、多少なりとも危険を伴なわざるを得ない登山を行為するためには、次のことがどうしても必要である。それは、指導する者と指導を受ける者との間に、ハダとハダのふれ合い、心と心のかよいである。この関係があればこそ、「イイ」「ワルイ」が明確にいえ、納得されるのである。

私は二十数年OB会の代表責任者として、何にもなし得なかった上、大事故をおこし、前途に無限の可能性を持っていた二人の若者の命を失ない、おわびの気持は今さら言葉にもならない。しかし、この遭難事故の処理にあたっては、麻布学園当局、部長始め諸先生、OB現役の理解と協力、文字通り献身的な奉仕精神的な連帯を、くらやみの中の一条の光のように思えた。やっぱり麻布は死んでいなかったと誇らしげに思えた。この連帯感をあらたなる原点として、部を再建することが、いまとなっては、亡き二君の霊を悼うなによりの供養である。(昭和二十四年卒)



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