[chronicles]



1961(昭和36)年度をふり返って

細島進



夏の南アルプス縦走、厳冬の八ヶ岳、春の白馬岳と高校一年を経験してきた我々は、充実した高校二年を迎えた。部員の数も、高三が2人、高二、7人、高一、6人、中三、5人、中二、1人、総勢21人とかなりの大所帯である。三島氏のコーチのもとに、研究会に精進し、トレーニングに励んだ。サッカーやフットボール等、日が没するまでやっていたものである。女学校巡りマラソンも忘れられない。暑くなると水泳部の練習を見計ってプールに飛び込んだ。屋上からの懸垂下降など、全員喜んで参加した。

第一学期に行なわれる文化祭で、我々山岳部はすごい人気を博した。材木屋が製材する時出す木の皮を大量に運び集め、教室の中に山小屋を作った。木の香を漂わせ、山の写真をかざり、ヨーデルをながし、かなりのムードを盛り上げた。憧れの女学生や父兄、先生に強烈な人気となって、ついには賞を獲得した。生徒会の割り当て予算も山岳部は一番多く、肩身が広かった。ボロボロになったキスリングやテント等を第一番に購入した。

思い出深い合宿となったのは、何といっても春の合宿だ。高二になった早々から、一年間の総決算である春山は鹿島槍ヶ岳と決めていた。アプロ-チは短かいし、尾根からのルートなら我々の技量に合っているとリーダー会で判断したのである。まず鹿島槍へは夏山縦走からスタートした。急峻な長ザク尾根を登り、冷池で幕営し、鹿島槍を往復。あいにく好天には恵まれたかったが、ほぽ、山の概念はつかんだ。9月の休みにも溝口と二人で爺子岳東尾根に偵察山行した。狩野氏宅の庭の裏から尾根にとっつき、ヤブに分け入った。最初はまあまあ道らしい道がついているので楽だったが、段々ヤブが深くなり、ついには身の丈を越すほどとなった。ここは初秋といってもヤブの中は風が通らず、二人共汗びっしょり。蜘蛛の巣を払い、腰をかがめて前をさえぎる笹を払いつつ進むこと数時間、ベースキャンプの予定地あたりにたどりついた。溝口と順番に高い木によじ登って景色を眺め、五万分の一の地図とにらめっこをして、その位置や尾根の様子を確かめ合った。

2月の偵察は神薗と二人で出掛けた。この時には晴天に恵まれ、たいした積雪もなく、ラッセルが楽だったのも幸いして、爺子岳の頂上まで行くことが出来た。冷えこみが強く、少々寒かったが、ベースキャンプ予定地でツェルトを張り、一泊した。シュラフザックに入ると満天の星がキラキラ輝き、山がとっても静かだったのを忘れることが出来ない。30センチほどのラッセルを一ピッチずつ交代しで進んだ。豪雪の谷川岳でのラッセルを思えば何の苦もない。尾根がとってもやせている所が何ヶ所かあっただけで、快調に飛ばした。日本晴れで、右手の鹿島槍、五竜岳が眼前に迫ってとても見事だった。この偵察行の成功が合宿本番に大いに役立ったことはいうまでもない。3月になったら一段と積雪も多くなり、かなりやせていた場所も平らとなって楽になった。雪もきちっと締って、冬の谷川でのテントが埋るほどの積雪など想像もつかない。

荷上げ、偵察、気象係とそれぞれ分担された仕事を責任持って行なうのが合宿だが、特にこの合宿では、気象係の価値が大きい。前々から天気図を作り、予報をたてたり、山に入ってからも、きちんと毎日天気図を作製し天気を予知出来たことは、大成功への足がかりだった。またこの合宿で初めて,トランシーバーを使った。 BCとAC間、A隊とB隊との行動予定の連絡とか様々に活用し、大いに偉力を発揮した。沈澱することなく、短期間のうちに合宿を終らせ、これは好天に恵まれてラッキーだったのと、それにも増して、チームワークの勝利である。

未だ明けぬ空の中を固くしまった雪面に、アイゼンがきしむ。ほとんどないといっていいほど弱い風に、我々印した赤いペナントが揺れる。モルゲンロートに映える鹿島槍と五竜黒部の谷の向うに大きた立山、剣。尾根のずっと下の方に黄色くぽつんと見えるBC。テントの外には、月光に照らされた数本のピッケル。いつまでも思い出として大切にしたい。

(1976年記)




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