[chronicles]



1965(昭和40)年度をふり返って

山本玄



40年度のまとめとして、レポート25号、26号と読み返してみると、忘れてしまっていたことが、随分なつかしく思い出されました。

実際当時の一年下級生の太田君、加藤君がまとめあげているので、私が書いたものでないのが今になって非常に残念な事だと思います。先日太田君に電話した所、彼の場合も同様ということで、二人とも今回の文章は、高級に書こうと意気投合したのであります。

さて私が40年度のリーダーになってまず手がけたことと云えば、部員の勧誘であった。中学、高校とあわせて4、5名で実際部活動として成立するかという問題と、山岳部の伝統を各学年毎にはたして引継ぐことができるかという問題に直面したからであります。しかし当時福原フィルムより映画をお借りして映画会を催したりしたのですが、参加者は多いのですが、実際部に入部したのは、皆無でした。

これにより、トレーニングをする上でも、合宿をする上でも、小人数ということで盛りあがりにかけ、また選抜されたものが合宿に参加できるという状態になりえなかったのである。また高校と中学のそれぞれ独自の合宿ができなかったという事も、部員を育てるという点で失敗であったと思う。今になって考えると完全に高校山岳部、中学山岳部と二つに分けるといった方針が当時でていれば、部員増加につながっていたのではないかと思います。部員減少とあわせて、高校生冬山登山禁止通達に対する問題、ワンダーフォーゲル同好会と違った山岳部の方向の問題などすべて解決されぬままに一年間がすぎさってしまったのではないかと思います。

このような状態ではあったが、私は年間のカリキュラムを作製し、最終目的である春合宿成功のために準備に取りかかったわけであります。私は年間を通じて、同じ山を徹底的に研究して、完全な登山をしたいという考えを持っていましたので最終目標の春合宿は、中三高一と2年間トライしている空木岳を再度アタックしてみようと考えました。それの準備合宿として、南アルプス北部(当初の計画では、野呂川越より北岳登頂であったが、豪雨のため馬鹿尾根走破に変更された)北アルプス燕岳、大天井岳をそれぞれ夏合宿、冬合宿に選びましたが、合宿毎に編成が違ったり、リーダーとしての判断の甘さや、OBの力添えが大であった事を考えあわせてみると、充分満足できるものではなかったと思います。しかし私は春合宿に於ては夏合宿、冬合宿と経験をつんで、徐々ではあるが、冷静な判断ができるようになり、また三度目の空木岳であるので充分な資料と経験がものをいって、完全な合宿を遂行できたと思っています。大学山岳部の現役の山田氏と藤原氏がOBとして参加して下さるということで、今まで以上に慎重で計画は充分余裕ある行動に変更されました。

春合宿は、天候により、頂上アタックが中止されたが、トラバース地点、危険な岩場にはすべてフィックストドロープをし、25キロの荷を背負っても充分に安全に考慮されており、三度目の合宿で初めて使用されたものであった。

このように安全に計画されていたのは、ルートを熟知していたということが、最も大きいと思っていますが、この意味で40年度の登山のしめくくりとして充分満足できるものであったし、このような登山が今後も継続されることを願ったものでありました。

即ち未知の山に登ることも結構であるが、それは夏山に限るべきであり、冬山には何年計画で登るという山を見つけるべきであろうと考えております。

(1976年記)




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