[chronicles]



1979年度をふり返って

山内健司



思い返すたびに苦しい時期であったと思う。自分がリーダーを引き継いだ10月の時点のメンバーは高一が二名、中三が一名、中二が一名、中一が三-四名という有様であった。クラブ全体として今までと同じ内容の山行を行うことはまず不可能な布陣であったし、それまでに意見の違い、家庭の事情などのために部員が離れていった経過に僕自身が疲れ果てていた状態であった。リーダーを引き継いたばかりの僕がまずせねばならぬ事は自分自身の山への情熱を取り戻すことであった。そこで、あまり高望みをしないで東京近郊の山へ登ることから活動は始まったのであった。下界で登山についてあれこれ考えている内に山に対してこだわりだらけになっていた僕だったが、中一・中二諸君が実にこだわりなく楽しそうに山に登る姿に、何度力づけられたか知れない。彼らのおかげで、山への情熱が生き返ったといっても過言でない。改めて彼らに感謝したい。

さて中一.中二は当然山登りにまだ慣れておらず、慣れていない者は誰もがそうである様に、生活技術のわずらわしさに振り回されている状態であった。下界でできるだけの事をやろうと思い、天幕設営・撤収、朝の手順などの個人個人の役割分担を実に細かく決めフォーメーション化して訓練したりした。当時の自分としても多少いびつな事をしている気分はあったが、実際に要領は飛躍的に良くなり、かかる時間も極端に短かくなったため、中学生にとっては良い方法であったかもしれない。その他、具体的な準備やトレーニングなども自分なりに気を引き締めてとりかかり、出席率もアップした。クラブの緊張が高まる中で行なった初めての合宿が丹沢であった。冬季合宿が丹沢というのもさびしい気もするが「クラブの土台作りをするのだ」という意気込みにはすさまじいものがあった気がする。当時よく言われていた「厳しい山行」と「楽しむ山行」という二分法からいえば、これはもう文句なしに「厳しい」ものを目指していたし、実際そうであった。一から出なおしということを実践した点で充実したものであったし、明確な目標を定めた厳しい合宿であった。

冬季合宿でまずまずの成果をあげたとはいえ、いかんせん参加した中一・中二が少な過ぎた。夏山の生活技術養成に下界での訓練が実に有効である事を知り多少の自信をつけたものの、春季合宿は又雪の無い低山を選ばねばならないことは明らかであった。この時期に「どうせ雪の無い低山に行くなら、いっそのこと遠くへ行こう」などと考え、屋久島を真剣に考えたことが今でも懐かしく思い出される。いくら南の端であってもやはり雪は有り、結果ボツとなったが、難度的にはそう高いところではないことを知り、例年位の力をもったパーティならば楽に行けるため、くやしがったものだ。結局、春季合宿の場所はまたも丹沢とし、今度は新たな中一を加え基礎がためをするためであった。またも丹沢としたのは、もう執念みたいなもので、どうせ東京近郊ならば丹沢を徹底的に歩いてやろうというものであった。おかげでこの冬と春とで丹沢はほとんど網羅してしまったのであった。春季合宿で「もう一度基礎がため」と言ってもこの時は前回ほどの悲槍感はなく、下界での訓練はしっかりとやって、山では春山を楽しむ、のんびりとした合宿であった。

このように中一・中二のレベルに完全に合わせた半年間であったが、夏山になればもっとのびのびと縦走を楽しむことができるに違いない、と信じて中一・中二の実力養成に徹したのであった。実際期待にこたえてくれたし、僕自身も彼らと登っている内に「厳しい山行」とか「楽しむ山行」とかを忘れ、また山が好きになり始めたのであった。そしていよいよ夏山へと向っていった。

(1986年記)




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text by k.yamauchi. photo by j.suzuki.

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