[chronicles]



1980年度をふり返って

山内健司



昭和55年度は飛躍の年にしようと初めからいきごんでいた。それまでの半年間で夏山に関する限りはかなり実力をつけていたからである。まずは新たな中一をむかえるにあたって、さまざまに精力的に動いたのが春であった。春季合宿終了後から新入生のための映画上映会の準備にとりかかった。東京福原フィルムスより映画を貸していただき、その他にもOB関係者のつてよりダウラギリ遠征のフィルムを借りてきて、又、10ぺージ位のパンフレットも作り上映会を行なったが、中一の反応はいま一つだった。文化祭では山小屋を作ってなかなか好評であった。これは昔文化祭で山小屋を作ったということを『岩燕』で知り、実行したものであった。又これを読んで発奮する後輩がでてくるのではないだろうか。そしてオープンハイクは今までの準月例山行的な色合いを少なくして、たき火や飯作りを主として行なった。これら一連の活動を通してかなりの人数の中一が訪れたが、結局残ったのは一人であったのが実に情けなかった。山岳部のようなカラーは年々受けなくなっているのだろうが、ある程度の努力をした後は余り気に病まないで充実した山行をやる事に全力をそそぐのが山岳部らしいと考える。

結果として昨年とあまり変らぬ布陣で今年度をむかえることとなった。夏に北アルプスの縦走を行なう事を決めたが、それまでにはもうワンステップ必要であった。従来は中学合宿・高校合宿と分けていたが、高二の二人以外は全て中学生であったから中学合宿を準備合宿としてとらえ、高校合宿クラスの山を全員でねらおうと思っていた。しかしいかんせん中学生は中学生でしかなく、合宿二本を続けてこなすタフネスさを持った者は少なく、準備合宿の時点で大部分の者が脱落した。結果として中三が一名、中二が一名と、現役はわずか三人の合宿となってしまったが、年間計画の目標をはじめてまがりなりにも達成した充実した合宿となったのであった。

夏が過ぎ、雪山を具体的に考えなければならない時期がやってきた。夏を境に江碕は実際の山から退いたため僕一人で冬山が全く未経験の中学生に冬山を教えなければならなかった。麻布学園山岳部で再び冬山で充実した合宿を行なうことができる日が来るように、僕は教える立場に完全に徹することにしたのであった。この時期に春山の目標を完全に定めることは不可能であったため、様子をみながら北八ケ岳付近でレベルに応じた合宿を組むことを最終目標と定めた。ある山を目指す過程で雪山を教えることは中学生がついてこなくなり、空回りや挫折してしまう可能性があると考え、教える過程を通して結果的にある山を目指すという方法論をとった。その方が技術が着実に身につくであろうし全員が最後までついてくる事を優先させたかったのである。丁度この頃に中三の部員が増え、またも山に対する新鮮なエネルギーが注入されたのはラッキーであった。これで次期最高学年となる中三は三人となり、うまくするとクラブの土台がしっかり出来るかもしれない、と期待に胸をふくらませ、いよいよ雪山シーズンが始まった。

11月の雪の少ない時期に春季合宿予定地へ行っておき、同時に寒さに慣れておいてから、12月は雪山技術訓練を目的とする合宿を行なった。この際も、昨年と同様に下界でできる限りの訓練を徹底的にやる方法をとった。この時は冬用天幕設営、アイゼン着脱等を時間を測って集中的に行なった。毎年やっている当然の事柄だが、全員でしつこい位集中的にやるのは、やはり今までおざなりにされていたと思う。徹底的にやるとやはり成果は上がるもので、彼らはあっという間にそのような作業にストレスを感じないレベルまで進歩した。さらにこの時は机上講習会にも随分力を入れた。この冬季合宿は中三のみの参加として、彼らに下級生より一歩先んじてもらうようにしたのであったが、内容的に厳しい合宿となり、彼らはきつい要求によくこたえてくれたと思う。丁度合宿の頃に八方尾根で逗子開成高校の遭難がおこった。同世代に大量の遭難者があらわれた事は僕にショックを与え、自分の実力やクラブとしての実力をもう一度考えなおすこととなった。冬季合宿ではまずまずの成果があげられ、一安心していたのもつかの間で、僕と江碕はもう一度中学生達への伝達やクラブとしての蓄積を考えなおす作業を行なった。まずは係別に装備、食料、気象医療、コース、記録、会計、図書とすべてについての知識を網羅したプリントを作り集中的にチェックしてみた。次に資料の整理にとりかかり、計画書、反省会資料、部報、係としての合宿の準備メモ(仕事の進行表など)、レポートなどをファイルにおさめた。又、他にも新しい技術書の購入や反省会資料の有効なまとめ方の再考など、考えられる事はすべてやるつもりで進めていった。すべて完了するには春までかかったが、中三への引き継ぎが同時に組織的に行なわれる結果となった。別の視点からみれば、これは最終ラウンドに入った者のみがやりたがる自己確認であったことも確かであり、総括という作業の僕らにとっての意味と、中学生達の受けとめ方は自ずと異なる。しかし登山の場合は事故をおこしてはいけないという大原則に基づいているため、はた迷惑な自己満足では決してなかったと信じているのである。

さて春季合宿のコースを決定するメドとして中二の実力が問題となった。実際に雪上訓練を行なう余裕はもう無かったから、雪に馴れることだけを目標として2月月例を行ない、。パーティーの足並みをそろえる事を考えた。中三が中軸の役割をはたす様になりはじめたのもこの頃だと思う。北八ケ岳が技術的には雪上生活位しか要求されない山であったため、北八ケ岳全山ならば縦走可能なパーティーができたと彼らをみて確信したのであった。

やがて春がきて、合宿は成功した。合宿はとても楽しかった。やっと雪山縦走ができるパーティーができて非常にうれしかった。特に最後の半年間は自分は山に対し非常に保守的であったと思う。つまり、実力はステップ・バイ・ステップにしかつける事ができない単線思考に意識的にこりかたまっていた。自分がリーダーになるまではそういう積み上げは非常に山をつまらなくさせるものと嫌悪していたが、その様な単線的な思考をしてもなお山は面白いというのは大きな発見であった。つまらないこだわりが取れたところで自分の現役は終った。その後当時の中学生達がのびのびとスケールの大きい山行をするのを実にうらやましく思ったものだ。なおこの年度から、OB金代表指導委員が鈴木先輩から三品先輩にひきつがれた。

(1986年記)




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