[chronicles]



1984年度をふり返って

金沢大介



昭和59年度は、僕にとっては苦しいだけで、希望が裏切られたという感の強い年だった。僕がリーダーを引き継いだのは、59年1月で、まだ中三だった。二人いた上の学年がそれぞれの都合でやめてしまったのである。部の運営などは全くわからず、ただ先輩に言われた通りにこれから二年半の年間計画というものをたてた。しかし、これは非常に抽象的なもので、結局は行きあたりばったりで合宿地を決めていくことになった。

この頃の僕は、リーダーであるという責任感らしきものにがんじがらめにされ、他の同級生の言っていることがすべて身勝手な事に聞こえた。部のことを真剣に考えているのは自分だけで、他の奴等は気儘に遊んでいるように見えた。真剣に考えてはいたのかもしれないが、僕には全くそれが伝わって来ず、非常に腹が立った。とにかくリーダー学年が四人いる内、サボる事を中心に考えている奴が二人いて、もう一人も中立の立場か何か知らないが、協力する素振りも見せず、ただ僕一人が部の運営に従事していた感があった。そしてミーティングではゲームがはびこり、ゲームのあい間にミーティングをしている様な状態である。僕は何度もやめてやろうと思ったが、ここでやめたら負け犬である。いつかは皆やる気を出してくれると期待をかけた。そのうち、これではいけないと気づいたのか、サボリ屋たちに部の本来の活動に対するやる気が見られるようになり、ああやっと軌道に乗りかけたなと思った。6月の終わり頃だった。

しかしここで僕は結核を宣言され、事実上の休部に追い込まれた。それから一年間は激しい運動ができず、当然山にもトレーニングにも1年間出られなくなるのだが「やめる」という文字は僕の頭の中には浮かんでこなかった。

こういったことから、下界でのリーダーは僕で、山の上でのリーダーシップは小田がとるという変則的な形で運営していくことになった。小田はリーダーになると責任感が湧いてきたようで、とてもよくやってくれた。そして彼等は夏は剣からの縦走、冬は仙丈、春は悪沢と、ハイグレードな合宿を次々とこなした。しかし、これらの合宿はすべて行きあたりばったりの計画で、綿密にたてられたものではなかった。また天気も良く、OB・先生に頼る所も多かった。

僕は側から見ていただけなので偉そうな事は言えないが、言ってしまえば運が良かったのだ。しかし幸運はそう続くものではない。土台がしっかりしていなければ、いつかは崩れ去ることになる。ちょうど金属疲労で飛行機が落ちたように、小さな事の見過しの積み重なりが大惨事を招く。僕は今、我が山岳部を遭難へ一歩近づけてしまったような気がしてならない。この年は、そういう不安を多く残す年となってしまった。しかし成果として、山岳部らしい活動が出来るようになった事が挙げられる。初期の状況は初めに書いた通りだが、あの頃から比べると格段にまとまりが出てきて、活動に対するやる気が皆に感じられるようになった。これは大きな成果で、今後の活動に充分期待が持てる所だ。

猶、OB会代表指導委員は本年度より三品裕司氏から高坂元顕氏に交代した。部長である増子先生、野本先生、平野先生、そしてOB会指導委員の方々には大変御世話になり、深く感謝します。この稿をまとめるに当っては『レポート』49号(昭和59年6月発行)を参照した。また、各山行のコメントは、小田健一に書いてもらった。

(1986記)




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