[chronicles]



1986年度をふり返って

山中康成



現役を引退してから早10年が過ぎ、手記なども持ち合わせていないので記憶も朧気ではあるが、昭和61年度と当時の麻布山岳部が抱えていた問題を振り返ってみたい。

昭和61年度は部員数五名で、近年の傾向の「少数化」がさらに進んでいた。しかしながら、部員各個人の体力・技術を結集することで月例山行や合宿は、ほぼ満足できる内容であったと思える。これらは当時より以前の山行計画を練り直して行ったものであり、新しい山系への挑戦やルートの開発など、いわゆる「冒険」は全く行わず、また行う力もなかったが、山行の度毎に、我々ができる範囲内で精一杯できたという充実感を持つことができた。個人的な山行も数回を数え、部全体だけでなく、個人的にも山を楽しんでいたと記憶している。

当時は高坂先輩の指導のもと、登山スタイルが大きく変化していく過程にあった。冬山登山には不可欠な重装備も軽量化・小型化が図られ、ザックも体力の消耗を極力防ぐものへと移行していった。重く背負いにくいザックを始めとする旧式の装備は、いわば「精神修行」の象徴にしか見えず、これらを世襲していくことがこれまでの伝統を守ることと同じであるとは思えなかった。同時に、この「精神修行」的発想が、部員数の「少数化」を招く最大の原因であるとも考えていた。決して諸先輩の経験を否定するものではないが、時代的背景も考え合わせると、麻布山岳部は今後も合理化されていくのであろう。

現在、アウトドア・スポーツという言葉で代表されるように、自然と触れ楽しむ風潮が盛んである。私は学生の時、医学部登山会に属していたが、この組織はクラシカルな登山だけでなく、山スキーやスキューバ・ダイビングをするグループもあり、今の風潮に逆らうことなく、大きく変化していった。登山会という名は実内容にそぐわないので変えようという意見もあったが、押し進める者もいないために実現することはなかった。これと同様に、麻布山岳部の基本理念が、自然と触れ従い、時には自然に逆らうことで自己を同定しようとすることであるならば、その方法と表現型は、厳格な登山だけでない。これは高校生め頃の私では到達し得なかった結論であるが、今にして思えば、これに似た気持ちを抱いていたようだ。

最後に、遠く利尻で亡くなった石井先輩を追憶したい。私が入部したばかりの頃、先輩はパーティーの中で、私のすぐ前をトップとして歩いていた。中学一年生の私は体力もなく、石井先輩との距離は次第に開いていくわけで、そこで先輩は時々立ち止まって振り返っては頑張れと声をかけ、疲れていても笑みを浮かべながら、また前を向いて突き進んでいく。その小柄な体の後ろ姿が、私にはとても大きく見え、畏怖の念すら感じたのを記憶している。学生の頃、大学のキャンパスで出会った時も、山歩会に入らへんかと誘うその表情は充実感に満ち満ちていた。今は多忙な日々で山とは離れてしまったが、山に行けばそんな石井先輩がまたひょっこりと姿を現してくれるのでないかと思えてならない。『レポート』51号参照(1996年記)



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