tome VI - 紀行・随筆1



冬晴れのヒマラヤ
〜ツクチェ・ピーク偵察行〜

山田 新


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1970年春に早稲田大学山岳部はネパールのダウラ・ヒマール山群に登山隊を送った。部員全員が参加する「海外合宿」だった。目標のツクチェ・ピーク(6915米)の登頂に成功したが、登頂の帰路に隊員一人の命を失なった。この遠征に先立つ1969年秋に私はネバール政府に対する登山許可申請の交渉を兼ねて、仲間二人とツクチェ・ピークの偵察に出かけた。いま、手もとにあかにまみれた数冊のノートがある。ページを繰ると冬晴れの空にそそリたつ山やまの麓をそして堆石に汚れた氷河を歩き続けた旅の思い出が鮮烈によみがえってくる。旅は人との出会いでもある。この山国で出会い、心を通わせ合った人びとの印象を軸に、楽しかった旅を振り返ってみた。


ポカラからのキャラバンの休憩。遠景はマチャプチャリ


ピンジューの水泳

「ハロー アイ アム ピンゾー」。カトマンズの安ホテル。人なつっこい笑いを浮べ、私たちの部屋に入ってきた青年が、この山旅を共にしたシェルパ、ナワン・ピンジューだった。1965年の早大ローツェ・シャール隊に参加したのが縁で、今度もダージリンからはるぱるやってきてくれた。ジェルバの都ナムチェバザールに近いターメの出身で、ダージリンにあるインド国立登山学校の教官をしている。当時28歳。細身のズボンにジャンパーを引っかけ、一見やさ男風だ。名前は実はピンゾーという。確めたら「日本人が勝手にピンジューと呼んでいる」と笑っていた。今でも日本ではピンジューの方が通りがいいので、ここでもピンジューで通そう。ポーターの手配のため、私とピンジューは仲間二人ともう一人のシェルパより一足先にカトマンズを発ち、ネパール航空のDC3機でポカラに向かった。八人のポーターはピンジューがまたたく間に集めてきた。賃金は1日12ルピーで話がついた。ピンジューは私のノートにポーター一人一人の名前、出身地、部族、前払い金額を一覧表にして書き込んでくれた。手ぎわのよさに驚き、心強く思った。

「このナイケ(人夫頭)は知り合いだから安心だ。出発の日には全員ちゃんとやってくるよ、山田サン(この部分目本語)」。ピンジューはうけあってみせた。人の良さそうなナイケがにこにこして私の顔を見る。「頼んまっせ」。食料や石油、ナベなどの買物も、空港から少し離れた街ですぐ終った。後発の仲間が着くまで一日あまったので、ポカラ見物することにした。

ポカラの地名はここにいくつかある湖(ポカリ)からきているという。まずこれを見に行こう。真黒な水牛がのんびり草を食べている広い草原を突っ切って歩いた。暑い。考えてみれば10月とはいえ、北緯28度、標高たかだか800米の亜熱帯だ。少し濁った湖を見たとたん、無性に泳ぎたくなった。「ピンジュー、泳いでみないか」「オーケー」

山国育ちのピンジューがまさか、と思ったら、さっさと着物を脱いでパンツ一枚になってしまった。私のあとについて、平泳ぎで追いかけてくる。かなり達者な泳ぎだ。振り返ると、アンナプルナの連峰が青雲の中に光って見えた。

ピンジューの見事な泳ぎぶりにはいささか驚いた。以前ベルガルに出稼ぎに行ったときに覚えたのだという。ネパールはもともと、勇猛果敢で知られるグルカ兵の故郷だが、ピンジューに聞くと、インドに出稼ぎに行くネパール人はずい分多いそうだ。現にピンジューは故郷を離れ、ダージリンで生活しているし、外国の登山隊に参加した経験も豊富だ。私よりは国際人だ。



ツクチェ部落

キャラバンは支障なく進んだ。バナナの実るポカラを発って6日目の10月13日、ツクチェ・ピークの登り口、ツクチェ部落に着いた。ヒマラヤを南北に断ち切って流れるカリ・ガンダキの深い峡谷は、ツクチェに近づくと谷が開け、民家の屋根にひるがえる色あせたラマ教のタルチョー(祈祷旗)など、すっかりチベット的風景だ。スイスの地質学者トニー・ハーゲンが著書「ネパール」の中で、ネパールを「コントラストの国」と表現している。まさに名文句というべきなのだが、たった6日間の短かいキャラバンでも、その意味がよくわかった。100粁ばかりの旅の間に気候、風土に始まって、住んでいる人たちの種族、宗教まで一変してしまったのだから。

ツクチェはかつてチベットとインドを結ぶ交易の要地だったという。村のはずれにチベットの岩塩とインドの米を積み替えた広場がある。広場の奥のゴンパ(ラマ寺)に隣り合った家が私たちの宿となった。この家の主トラチャンさんはラサに学んだチベット医者で、ゴンパを管理するラマでもあった。職業柄か、盛んに抗生物質を欲しがるので、手持ちの医療品の中から進呈しておいた。

この晩にやっかいなことが起きた。昼間、私たちの旅行許可証(トレッキング・パーミット)を見た若い警官が「登山許可証がなければこれより上には行かせない」といってきたのだ。ダンプッシュ峠まで旅行許可をとっておけばよかった、と悔んだがあとの祭り。しかし、ツクチェ・ピークの偵察にきたのに、登路を確めないまま引返すわけにはいかない。ピンジューとトラチャンさんが警官相手に談じ込んでいる。ピンジューが「ポリスが怒っている。いまがわいろの使いとき」とささやいた。仕方がない。とっておきのセーターをプレゼントすると、この若者の黒光りする顔が急に卑屈になった。警官は(1)このことを他言せぬこと(2)チェックポストのあるジョムソンには絶対行かぬこと、と言い置いて出て行った。ピンジューがウインクして笑っていた。一件落着だ。



ツクチェ部落

ダンブッシュ・コルへの荷上げ


ダンブッシュ峠

ポカラからのポーターはツクチェで賃金を払って帰した。半ズボンにはだしの彼らは、これより上には行けない。代わりにツクチェに住んでいるタカリー族の青年たちを雇った。彼らは長ズボンに靴をはき、英語がうまい。タカリーの民度は高い。標高2600米のツクチェからダンプッシュ峠(5000米)まで二日で上がった。私たち三人のうち、私と相棒の米本隆夫(教育学部4年)にとっては、イランのデマベンド山の第二キャンプ以来、二度目の5000米だ。少し頭痛がして寝苦しかった。

明けて10月16日、米本とピンジューが峠の北にそびえるマルパ・ピーク(6075米)に、私ともう一人のシェルパ、ツェリンが峠の南に位置するリトル・ツクチェ・ピーク(5870米)にそれぞれ登った。隊長の大滝慧さん(39年理工学部卒)はテント番。朝七時半出発。リトル・ツクチェまではサラサラの悪い雪がついたリッジを膝までのラッセルでひたすら登った。ツェリンはときどき遅れ、ザイルがのびきって引かれることがあった。午後一時半、頂上。予想したほど苦しくはなかったが、テントに帰ってから吐いた。前夜、やたらに食欲が出て、食べすぎたらしい。胃が弱っているようだ。米本、ピンジュー組は快調。

翌日、ダンプッシュ峠の少し東側に張ってあったテントを、峠を越えヒドン・バレーの内院に移した。峠とはいうものの、これは雪の大平原だ。1960年、マックス・アイゼリン率いるスイスのダウラギリ1峰隊は物資の輸送にスキーをつけたピラトゥス・ポーター機を使ったが、ポカラを飛びたった飛行機が着陸したのがこの峠だ。峠を越えた内院側の斜面に、ピラトゥス・ポーター「イェティ号」のオレンジ色の機体が雪に半ば埋れているのを見つけた。

これまでの偵察でわかったことは、従来の概念図ではリトル・ツクチェからリッジがツクチェ・ピーク西峰(ブライトホルンとも呼ばれる、6800米)またはジャンクション・ピークにつながっているように描かれているが、実際はリトル・ツクチェとのコルから先は圧倒的な壁になってせり上がり、とうてい登路には使えない。ジャンクション・ピークから内院に落ちている顕著な尾根がルートになりそうだった。そこで、この尾根に前進キャンプを一つ設け、19日、米本とピンジューが標高6000米付近まで偵察した。ジャンクション・ピーク直下の斜面が急で悪そうだが、来年はきっとこのルートから頂上にアタック隊を送れるだろう。結論が出て、偵察はあっけなく終った。



マヤンディ氷河を下る

実は、日本を出るときから、私が胸にしまっていた一つのプランがあった。ヒドン・バレーの内院からフレンチ・コルを越え、マヤンディ氷河を下ってみたかったのだ。偵察が早目に終り、体調がよければ、と期していた。偵察がすべて終り明日は下山という10月19日夜、私は大滝さんにこの話を切り出した。大滝さんはしばらく考え込んでいたが、やがて「ピンジューを連れて行け。無理はするなよ」。OKが出た。私の調べた限りでは、日本人でこの氷河に足を踏み入れた者はいない。胸が高鳴るのを覚えた。

20日朝、テントをたたみ、五人で記念撮影した。いよいよ出発だ。ツクチェ部落に下る大滝さん、米本、ツェリンが「気をつけて行けよ」と見送ってくれた。だだっ広いヒドゥン・バレー内院の雪原をフレンチ・コル目指してまっすぐに突っ切る。思ったより距離がある。コルに突き上げる最後の斜面は急で雪が深い。ピンジューが立ち止まって「山田サン、マットを借して」という。いぶかって見ていると、両足にマットをくくりつけ、すたすた歩き始めた。なるほど、ワカンの代わりだ。私が深いラッセルで悪戦苦闘のあげくコルにたどりつくと、ピンジューは得意そうに笑って待っていた。

コルから見たダウラギリ1峰の北面は息を飲むほど巨大だった。北東コルから押出している懸垂氷河の末端から、一気に4000米の岩壁がそそり立っていた。コルの真中にケルンが積まれ、「ハイニ・ロイス」と刻んだレリーフがはめ込んであった。1959年、クレバスに転落、死亡したオーストリア隊員の墓らしい。ピンジューは昼食のインド製ビスケットをかじりながらダウラギリをバックに写真を撮ってくれ、という。ビスケット会社がCM写真に使えば、金をくれるから、というのだ。ずい分ちゃっかりしている。にっこりポーズをとったところを一枚。

コルの南側は雪がなかった。岩くずの崩れやすい斜面を気をつけて下った。ダウラギリ北東コルからの氷河が出合う場所は見るからに恐ろしいので、右岸を大きく迂回し、急なガレを下って、とうとう氷河の上におり立った。氷河に慣れているピンジューにルート探しをまかせた。両側は切り立った斜面が迫まり、氷河はあちこちでバックリロを開けて、気味が悪い。ピンジューはクレバスを避け、動物的にとぎすまされた感覚で右に左にルートを選んで進む。西に向かっていた氷河が南に大きく進路を変える屈曲点を過ぎたころ、谷間だけに、早い夕闇が迫まってきた。平らな所を選んでテントを張る。

21日。歩き始めて間もなく、氷河は終った。氷河の末端は左岸から落ちてくる雪崩でスノーブリッジがかかっていた。さて、ここから右岸を行くか、左岸を行くか。右岸にははっきりした踏跡があり、その先に放牧地が見える。左岸の林にも道があるような気がした。私は左岸を主張する。ピンジューは右岸と云い張る。ピンジューに従って右岸の踏跡をたどる。広々とした放牧地を抜けると、草付きの急斜面で行く手をはばまれてしまった。ピンジューが「しまった」という表情でチェッチェッと舌打ちした。下流の部落に通じる道はやはり左岸だった。じたばたしてもしかたがない。見晴らしのよい場所に腰をおろして、じっくりまわりを観察した。草付きの斜面はそれほど危険ではない。そこを下るとマヤンディ・コーラの支流だ。この沢下りもなんとかなりそうだ。ここからみた限りでは、本流の水量はそれ程多くない。ザイルもあるので、場所を選べば渡れるだろう。だめなら、一日無駄になるが、引き返せばいい。ピンジューがすっかりしょげ返ってしまった。「気にするな」と声をかけて下り始めた。本流は予想通り、幅は狭かったが、水量は近づくと意外に多い。右岸の水際を木の根頼りに下りながら渡渉点を探していると、大岩に丸太を渡した一本橋があるではないか。助かった。ぬれずに渡ることができた。左岸の踏跡はじきに見つかった。歩きにくい山道を下ると、橋がかけてあり、そのたもとでキャンプした。テントのそばで意外や、使用済みのチリ紙を見つけた。まだ新しい。日本人が最近通ったらしい。

22日。道はネマガリダケのような太いササが密生する中をくねってついている。以前、ダウラギリ1峰を目指すアルゼンチン隊が竹林を切り開きながら苦労して進んだ、というのはこのあたりだろうか。コナボン・コーラの出合いをすぎると、ところどころに「三共胃腸薬」と日本製ジュースの素の包み紙が落ちていた。ここから二、三時間下ったところに牛小屋があり、、ミルクを分けてもらって飲んだ。この小屋のおやじに聞くと、つい最近若い日本人が二、三人通った、という。ピンジューが「このおやじのネパール語はよくわからない」といって苦笑していた。かなりブロークンなネバール語らしい。この日は最初の部落ボカラで泊った。次の日にはムリ部落に着ける。あとは街道筋を歩けばいい。今度の冒険は終った。ピンジューと私はベニ、クスマ経由の街道を少し飛ばして歩き、四日間でポカラにさきに着いていた米本らと合流した。

勤め先の休暇が切れる大滝さんは11月1日、あわただしく帰国の途についた。ピンジューとツェリンもこの日、ダージリンに帰った。



ダウラ・ヒマール内院にて。左はピンジュー


参考リンク:

ツクチェ村の紹介
ヒドゥンバレー概略


最近のカトマンズ('98)


カトマンズ

カトマンズに残った米本と私は、下宿を借りた。宿賃節約のためだ。ちょっとした日本人部落で、家主の名前からガネッシュマン・ハウスと呼んでいた。北大山岳部の人たちや、旅の途中、この地に居ついて日本語を教えている人などさまざま。この宿で自炊しながら次の旅の準備にとりかかった。

カトマンズは当時、ヒッピーの桃源郷として有名になっていた。大麻からつくるハシーシが簡単に手に入ることや、生活費が安く上がること、寺院の多いエキゾチックな街並みの魅力が彼等をひきつけたのだろうか。カレー粉と牛糞の臭いがただよう街なかを、はだしで歩くヤンキー娘に出合うことがあった。

こんなある日、エベレスト・スキー滑降の偵察から引上げてきた三浦雄一郎さんとカトマンズ郊外のバラジューというところにあるプールで水泳をした。この人の泳ぎはすごい。1500米ぶっ続けで泳ぎまくった。このあと、市内のレストランで食事したが、三浦さんは一口ずつ、それはていねいにかみしめて食べる。体調を崩さないための努力だろう。スキー隊の日本人で、個人装備を自分で背負ってキャラバンを歩き通したのは、隊長の三浦さんだけ、とも聞いた。すべては本番の滑降を翌年にひかえた、すさまじいまでのプロ意識の現われだったのだと思う。



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text by s.yamada, photos by s.yamada & n.takano('98)

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