tome VI - 紀行4


 

西丹沢今昔
- 古いアルバムより -

(1976)

小田 薫(昭和23年卒)


部創立30周年の記念岩燕を出すから、思い出話しでも書いて欲しいと云われて、本棚の隅から岩燕一号から五号迄や古いアルバム等を引っ張り出してみた。十年一昔と云うから三昔にもなる事なので、記億も殆んどないが、当時の記録や写真を見ていると、断片的に浮んでくるものもある。記録はやはり大事である事がよく解る。つまらない事でも、時間が経てば歴史となって一つの物語りになる。人間の頭脳は30才位から老化し始め、回顧をなつかしんだり、自分の体験談や故人の話をする様になると、精神的にも老化が進んでいると云われる。私もどうやらその様な傾向になりつつあるが、思い出すままに振リかえりながら、現在の状況と比べて見たいと思う。

麻布中学校山岳部と書いた古いアルバムが私の所にある。その第一頁に1946、10、7、新宿二幸にて」と書かれて、左から桜井、小倉、私と三人並んでいる写真がある。二幸にて、とあるから写真館で写したものと思われるので、現存するのはこれ一枚かも知れない。色はセピヤ色に変色しているが、はっきりとよく写っている。三人で写真を撮ると、真中の人は死ぬと云われているが、死んだのは左にいた桜井で、後の二人は何回か死にそこなったが元気で生きている。三人共麻布中の制服を着て学帽をかぶっている。私だけが学帽でなく登山帽をかぶっている。私だけが学帽でなく登山帽をかぶっているが、山岳部発足の記念に写したものであろう。桜井の事は岩燕五号に中村が書いているが、昭和22年の正月に志賀高原で死んだのだから、今年が30回忌だった。短いつき合いだったが話題の多い故人であった。

当時の登山スタイルは、着るものもなかった故か学生服が多い。帽子も校章をつけた学帽をかぶって、リックサックを背負っている。他はウインドヤッケの様なものを着ている。靴はよく写っていないが、旧軍隊の靴みたいなものか、運動靴ではないかと思われる。昭和22年4月8日-11日に、西丹沢の日向沢より檜洞丸を登りユーシンヘ下った時の写真がある。岩燕四号の記録によると、中村、小倉、成瀬、私の四人で、谷村(今の都留市)から道志川に沿って歩き、久保で一泊。翌日長者舎一泊。長者舎の小園氏に蛙(現地の云葉で「ガトゥ」と云うと書いてある)の料理を習っている所が写真になっている。成瀬、小倉、中村、小園氏の四人が、井戸沢で蛙の皮をむいて洗っている。中村の顔が面白い。蛙の毒気で水が真白になっている。私がいないので、私が写したものだろう。小園氏はその後引越され、長者舎も場所を替えて建て直し、立派な山小屋となった。当時の小倉はワラ屋根で、囲りも流木みたいな根切れで囲まれ山羊二匹と同居しているとても人の住む家ではなかった。たしか、夜食にいろりを囲んで、ランプの下で蛙一匹を丸焼にしながら食べた記憶がかすかにある。食べ物が少なかった当時、蛙は貴重な食料だったのだろう。蛙で腹が一杯になった翌日、神の川を遡行日向沢に入り檜洞丸へ登った。日向沢は下流の大滝が有名であり、これを直登しようと挑戦したが、直登出来ず高捲きした様な記憶がある。滝の中をへばりついている写真がある。私と中村が、幽霊の様に岩壁にへばりついている。水量が豊富なのでずぶ濡れになっているのであろう、そこで時間を食って、ビバークする羽目になった。檜洞沢の大滝の上でビバークして、翌日ユーシンに下った。ユーシン沢の出合で、成瀬と中村二人の写真がある。右ユーシン沢、左檜洞と大きな石にペンキで書いてあり、その前で中村はヤッケを着て、肩からザイルをタスキにかけて、蛙を20匹位ぶらさげている。成瀬は何やら一ばい着ているが、寒かったのかも知れない。成瀬が膝を怪我した時は、この山行だったと思うがはっきり覚えていない。ユーシン休泊所から神経迄は、山神峠を越えて三時間かかっている。実に四日かかって、檜洞丸に登っているが、今では檜洞丸に登るだけなら日帰りが出来る。秘境といわれていた檜洞丸周辺も、すっかりベェールを脱いだ感じだ。


蛙の皮をむく
日向沢大滝をのぼる
ユーシン沢出合にて


先日、ユーシン休泊所迄自動車で行ってみた。昭和26年8月、西丹沢合宿をやって以来25年振りである。渋沢駅から三廻部、中山峰、雨山峠を越えたり、玄倉から山神峠を越えてユーシン入りをした当時の道は、自動車で楽に走れる様になった。中山峠の道は、国道246号を渋沢で右折(東京方面より)、三廻部迄は舗装道路だ。三廻部から土佐原林道に入る「危険を承知で通行の事、生命保証せず」と営林署の看板が出ているが、それ程ひどい道ではない。一車線なので、対向車があるとやっかいだ。中山峠の付近はゴルフ場を造成しているので、一部道路のつけかえ工事をやっている。土佐原部落を通って、宇都茂迄4粁の林道だ。宇都茂から寄木沢に沿って、立派な道路が稲郷迄出来ている。稲郷からは登山道になるが、雨山峰迄3.8粁との導標が立っていた。稲郷から道路は左折し、寄木沢を立派な寄木橋で渡り、県立青少年キャンプ場の前を通って、秦野峠から玄倉へ抜けているが、工事中で途中迄しか通行出来なかった。バスは新松田から宇都茂迄入っている。新笹岡から国道246を通って、松田ランドから宇都茂へと入って行くが、246、宇都茂間は狭いがよい道だ。道路の拡張工事をやっているので、完成したら対向車に気をつかわずに走れる様になるだろう。宇都茂へ行くには、土佐原林道より246からの方が楽だが、丹沢の景観を見るなら土佐原林道は素晴らしい。ユーシン休泊所へは、松岡インターから国道246号を御殿場の方へ行き、山北の先谷峨を過ぎてから東名道路の下をくぐり、橘を渡ってすぐ右折、神繩、玄倉経由で東京から二時間ないし三時間で行ける。玄倉の手前は丁度三保ダムの建設で、大規棋な土木工事が行なわれ、飯場があっちこっちに建てられ大型ダンプやブルドーザー等がうなっている。今の道路も、一部は水没するらしく、新しい道路が山の上の方に出来ていた。ユーシンヘは、中川温泉への道を左に見て、玄倉林道に入ってゆくと、例によって「一般道路と違うから危険承知で通行の事、営林署は一切責任を負わないし」の看板が立っている。ユーシン迄玄倉から約10粁、林道といっても、岩石がゴツゴツしていて、落石が多く走りづらい道である。道は一車線一杯である。途中掘りっぱなしのトンネルがあり、その中でも玄倉第二発電所の手前にある仏岩のトンネルは、長くて気持が悪く今にも囲リが崩れ落ちてきそうである。そのトンネルを出た所は玄倉川の豪壮な眺めであるが、山崩れの激しいところで、落石よけのトンネルもあるが、運悪く石が落ちてきたら、玄倉川迄流されてしまうだろう。同角沢の出合を対岸に見て、やがて雨山沢を横切ればユーシンである。昔は吊橋だった橋は、立派な鉄橋となって、駐車場へと導かれる。残念な事に先年の風水害で、駐車場は殆んどが破壊されて、三、四台程度しか駐車出来ない。駐車場から樹林の中を百米程登るとユーシンロツヂとユーシン山荘がある。ユーシンロッチは一部三階建ての立派な建物だ。ユーシンに立っている導標によれば、檜洞丸迄檜洞沢経由3時間30分。大石山経由3時間とある。東京を朝早く自動車で発てば、日帰りも出来る様になった訳だ。玄倉林道は危険防止の対策が殆んどされていないので夜間は危険である。又一車線のため登山者が多い時や、対向車が多い時は意外と時間がかかるものと思う。シーズンにもよるが、玄倉ユーシン間で一時間位は見ておいた方が無難である。大雨の時は通行禁止となる。

西丹沢の思い出としては、何んと云ってもモチコシ沢の大滝で落ちた時の事である。パーティーは何人だったかあまり記憶がないが、岩燕四号によれば、昭和26年8月15日-17目西丹沢合宿、中村、笠原、内田、後藤、荒木、原田、松岡、三橋となっている。大滝を直登して、後から登ってくる者を確保するためザイルを岩角に巻きつけて、大丈夫かどうか試すためにぐっと体重をかけたらザイル(当時は麻であった)が濡れていたために固くなっていてよく締らず、スッポリはずれてしまったから、そのままもろに後ろ向きに落ちてしまった。夢中で両手両足を伸ばして背中を岩壁にこすりつけながら頑張ったら、小さい岩の突起に股がひっかかって止ったのである。正に奇跡としか云いようがない止り方であった。両足は滝に向ってぶらぶらしている。下手に動くと落っこちそうなので、背中と両手でじりじりはい上り、やっと安全な場所迄たどりついた。下迄落ちればもちろん即死は間違いないところだっただけに、よく助かったと思う。後で肘が痛むのを調べたら、大豆位の石が何個か肉の中迄食込んでいたから、よほど力強く岩壁を押えつけたのであろう。落ちた時は、私より見ていた人の方がもうだめだと思ったそうだ。この時の記録と、神の川合宿のまとめ(岩燕四号に記録)とを、山と渓谷杜刊の登山地図帳丹沢山塊に私の名で執筆したのが昭和29年7月出版された。定価180円である。掲載されたのはモチコシ沢、同角沢、神の川本谷、伊勢沢、日向沢、彦左衛門谷、若水沢、仏谷、小谷、大岩沢の遡行登攀記録である。この本は昭和33年7月丹沢の山と谷として定価150円で同社より再刊された。

西丹沢は、この他玄倉川の下降(中村、真野と三人)、同角沢の遡行(小倉と二人)、地獄ザリ(小倉、中村、後藤の四人)、等が記録に残っている。地獄ザリはタイム、登攀の様子の記録等か無いのでよく解らないが、夜になって鍋割山稜から馬鹿尾根を歩いた気がする。25年振リのユーシンは、西丹沢のなつかしい空気を胸一杯に味わうことが出来た。猛烈なやぶこぎをやらされた犬越路も、中川温泉から長者舎迄林道が開通している。機会を見て、こちらの方も通ってみたいと思う。難しい岩登りは出来ないにしても、西丹沢の山と谷を又歩いてみたくなった。同好(行)の志よ!! 西丹沢へぜひ行こうではないか。


説明のない写真について:

  1. 1947年4月、神の川長者舎にて
  2. 1976年、ユーシン付近にて

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