tome VI - 合宿報告 6


 

烏帽子岳から笠ケ岳へ

昭和44年度夏季合宿
前田辰雄


page 2/2 [行動記録]

行動記録

7月21日(晴)

全員定刻に新宿駅集合。6時50分発アルプス1号に乗り込む。見送りの人達からの差入れのカルピスやスイカが加わって、キスリングもはちきれそうである。松本で大系線に乗換えて大町に着く。登山計画書を提出して1時のバスで七倉に向う。七倉からいよいよ荷を背負って歩くのだが、軌道なので枕木に歩幅が合わず非常に歩きにくい。それにカーブからいきなりトロッコがとび出して来て、幾度かあわててよけるようなことがあった。暑い中3ピッチ頑張り、右に不動滝の堂々たる飛爆を見ると、やがて濁小屋に出た。河原に近い砂地に天幕を設営した。夕食は松宮の家で煮てきたおでんだったので、比較的早く済ませられたが、合宿早々まずい米飯に閉口させられた。夕刻のニュースで、アメリカのアポロ13号の月面着陸の模様を知った。

7月22日(晴後曇)

朝食を終え直ちに天幕撤収。今日は急登をもってなるブナ立尾根を登る一番辛い行程である。少しでも涼しいうちに高度をかせぐため闇の中を出発する。

濁沢沿いの道から尾根への取付が、暗くて探し難いこともあった。尾根には大木が枝を伸ばし展望はない。そのうちに陽も昇って次第に暑さがこたえてくる。2ピッチ目あたりから。ペースを崩す者が出始め、コールをかけて励まし合う。遅れる者にはOBが付いて歩き、昼近くなって2200の三角点に這うようにしてたどりついた。1000米の標高差を消化したわけだ。二度目の昼食をとっていると、夜行で来た。パーティーでも早い人達がちらほら追いついて来た。

三角点を越えてからは傾斜も心持ち緩くなったが、日盛リのことで、鼻血を出す者などもいてはかどらない。右前方には烏帽子岳の稜線が望まれるが、はるか奥に感じられる。幕営地を確保するため、OB一名と天幕を背負っている現役を一名先行させることにした。

烏帽子小屋の天幕場に全員そろった頃には、他のパーティーは既に夕食の仕度にとりかかっていた。疲労の激しい三名が食当につき、他は烏帽子岳を往復。

雪田から細々と流れ出る僅かな水を使用するので夕食の仕度に手間どり、翌朝の水をくみに行った時には星がきらきら輝いていた。



7月23日(晴後面から曇)

最大の課題であった登りを終え、体も次第に合宿に慣れてきた。烏帽子からは登り下りの少ない稜線伝いなので、殆どコースタイム通り順調に進んだ。北側から三ツ岳をまき、岩の多くなる稜線を辿ってゆるやかな登りを終えると、野口五郎岳に着く。昼食。北アルプスの主だった山が良く望まれた。

五郎池を右下に見下して真砂岳を越え、東沢乗越に近付くにつれて雲が出て来た。尾根が狭まり、両側がガレて乗越にかかるころから雨模様になった。大きな荷を背負って岩場を越えるのには気を使った。短いが急な滑り易い登りをがんばると、小さな水晶小屋に着いた。視界が悪く風もあるが、雨が止んだのは幸いだ。しばらく下って岩苔乗越に天幕を張る。黒部川の源である雪渓に穴をあけて水場にした。この流れが、昨年歩いた棒平や阿曾原につづいているわけだ。霧が引くと、黒部五郎岳が現われた。

7月24日(曇)

計画では赤牛岳往復の日だが不安定な天候と体調を考慮して高天ケ原、雲ノ平を周ることに変更した。

岩苔小谷を下って高天ケ原に向う。高山植物の多い小道を1時間程で小広い高天ケ原に出た。針葉樹が取り囲んだニッコーキスゲの群落に高山蝶が舞う別天地だ。前日の雨で小屋付近はぬかるみになっている。陽がのぞくと、辺り一面草の香りにあふれた。温泉谷に立寄ると、小屋泊りの人が湯につかってくつろいでいた。

岩苔小谷を渡って、薄暗い原生林の中を約2時間、登りついた雲ノ平は、霧を生む深い谷と高山に縁どられ、カッパでも跳び出して来そうな雰囲気に満ちていた。岩と雪田と池塘に群れ咲く高山植物が、美事な調和を織りなしている。雲ノ平山荘を過ぎると、ハイマツが多くなり、祖父岳に着いた。雪渓を渡ってくる風がとても冷たい。霧で周囲の山が少しも望めないことをうらみつつ、天幕目がけてかけ下った。

幕場につくと、天幕に「ここに天幕を張ってはいけません。三俣蓮華に移動しなさい-営林署」とチョークで書かれているではないか。パトロールが来たのだろう。自然環境の保全上必要な処置ではあろう。うしろめたい気はあったが、赤牛岳往復にはここからでも相当長時間かかるので、天幕の移動はあえて行なわなかった。

午後4時にとった天気図から、発達しそうな低気圧の接近が予測された。荒天が続くことも考えられるので、少しでも行程を消化し下山路に近づいておくため、赤手岳往復を断念し、明日は双六池まで進むことに決まった。



7月25日(晴後曇)

快晴にめぐまれた。昨日まで姿を見せなかった薬師がすぐ近くに現われた。天幕を撤収している間に陽が昇った。縦走路に戻り、ワリモ岳を経て、一ピッチ半で鷲羽岳に登り着く。正面には鷲羽池のかなたに長大な北鎌尾根を従えた槍の勇姿がそびえ立つ。最後の目的地である笠ケ岳も遠望され、ふり返ると昨年の剣が立山の向うに顔をのぞかせている。北アルプスの核心にふさわしい雄大な眺めだった。

岩の多い急坂をコルの三俣山荘まで一ピッチ下り、すぐ三俣蓮華への登りにかかる。そろそろ陽ざしも強くなり登山者が増えて行列を成しはかどらない。急な一登りを終えると、岐阜・富山・長野三県の県境に当る山頂に出た。既に多くの登山者が休んでいる。我々も快い谷風の中でゆっくり昼食をとる。

双六池に向う途中から、良い幕営地をとるため、OB一名と現役が二名先行する。双六池は未だ、半ば雪田の中にあった。

双六岳の山影を映す池を眺めたり、近くの雪渓に出てグリセードを楽しんでいるうちに続々と登山者が到着して、一大テント村が出現した。槍・笠・烏帽子・薬師と、それこそ蟻のように四方八方から集まって来たのだ。 こうなると水場やトイレが混むのは勿論、自分の天幕を探し出すのさえ楽ではなくなった。

台風は本州を外れた。計画にはないが明日は槍往復を行なうことになった。早発ちを考えて日没より早く眠りについた。

7月26日(曇時々晴)

ゆっくり休養させるため、太田をテント・キーパーに残して、六名でガスのかかった西鎌尾根を登る。辿るにつれて尾根はやせ、暁の北鎌尾根を正面に、ハイ・ペースで登ること約2時間、槍の肩に着いた。軽いランニングを済ませたときのように爽快だ。しかし、既に槍穂の岩場には小屋泊りの人の列が頂上までつづいているではないか。この登りだけに1時間もかかってしまった。頂上はガスに包まれ、前穂が見えかくれする程度。半時間あまり待ったが結局ガスはひかず、がっかりして肩に降りた。昼食をとって、太田の待つ双六池に馳け下り、午後はまたグリセードの練習などですごした。天幕は昨日よりまた一段と増えたようだ。


7月27日(曇後雷雨)

小雨模様に加えて風が吹いている。大ノマ乗越へは捲道をとる。泥と木の根のいやな道だ。しかし、出会う人もめっきり減って、双六池のにぎやかさがうそのようだ。休養は充分の筈だが、天気のせいか今ひとつ元気が出ない。晴れていれば槍から穂高への稜線や、滝谷の険谷を見られる素晴しい尾根道なのに、この厚いガスでは望むべくもない。岩と雪が美事な構成を見せている秩父平では、この悪天候が一層うらめしく思われた。岩ばかりの抜戸岳三角点の西側で昼食にする。

単調な尾根道を辿るうちに、いつの間にか笠の肩にある幕営指定地に着いた。他に天幕も見当らない静かな泊り場だ。天幕設営後前の雪渓に出て、3時間余りスリップ・ストップとコンティニアスの訓練を行なった。突き出た氷塊が体に当たって、滑り落ちる役は辛かった。

7日間歩き通したこの山行も、とうとう最後の晩を迎え、残った食料を全部並べて豪勢な夕食にしようとしていた矢先、目の前を閃光が走り雷鳴が天地をゆるがして激しい夕立がおこった。夕食の準備もそこそこに、交代で裸で溝掘りや、張綱の補強に追い回わされるはめになった。ようやく小降りになって一息つくと、体の震えがとまらなかった。

7月28日(曇後晴)

懐しい下界に戻る日。余った米や石油を小屋にあげて出発。笠の頂上でもとうとう眺望にめぐまれなかった。せめて小石でも拾って、クリヤ谷に下るとしよう。途中に岩小舎がある。とても自然が作ったとは思えないほど居心地良さそうに出来ていた。

谷に入ると急な個所が幾つもあって、登って来る人はなかなか苦しそうだ。ジグザグを繰返すうちに傾斜もゆるく谷底近くなり、番号の少なくなってゆく道標を数えてゆくうち、ようやく沢筋に着いた。所々にかけられた丸太の橋はとても滑り易くて、力のぬけきった膝にはなかなかこたえた。途中遅れた一名にリーダーが付き添い隊が二分してしまったが、昼には全員そろって無事槍見温泉に着くことができた。

2時間ばかりバスにゆられ、高山で解散。現役は翌朝富山経由で帰京した。(昭和46年卒)



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1969年活動記録も併せてご覧下さい。



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