ヒモさんメモリアル(2)



このページでは、追悼文はじめヒモさん関連の文章を掲載しています。


今だから言っちゃおう(2)

斉藤マサキ(1976年卒)


「おいマサキちょっと来い」
「ハイ」

先生の少々心配そうな?顔=シゴキ?鉄拳?はたまた・・・

「いや、ちょっと子キジ」

晩メシの片付けも終わった冬天、外は雪。寒いです。
相変わらず怪訝そうな先生。
膝くらいまでの新雪をラッセルしてテントが見えない所まで。

「おい」
「ハイ」

私がヤッケのポケットからごそごそ取り出したのは怪しげな?紫色の缶・・・
ヒモさんがポケットから取り出したのは、これまた怪しげな?茶色のビン・・・

ははは、缶ピースとトリスのポケットびんです。
高校生にタバコ買わせて持ってこさせるとは!。

ははは、これまた違うんです(^^;
私、そもそも当時からヘヴィスモーカーの不良(しかもピース)(^^;;
ヒモさんと最初に行った合宿で、大休止の時ちょいと岩陰へ行ってスパーぷはー。

「おいこら!」
「げっ」と上を見上げると岩の上にヒモさんの怖そうな顔。

ぴょん、と飛び降りてきて

「よこせ」と1箱だけ!取り上げて「これで合宿にはタバコ持ってくる必要なくなったな。」と”ニヤリ”

はい、私は以降ヒモさんのタイコ持ちならぬ”タバコ持ち”・・・
ただし、所持していることを隠す必要が無くなったのは役得でした?
1本毎にザックから缶を取り出してヒモさんに渡し、毎度連れ子キジ・・・

さてピースぷかぷかトリスはキャップでキュイといただいて、さすがに寒いのでテントに戻ります。

その間は明日のアタックでの注意点等々、超有意義な指導でもあり、翌アタック日は超快晴で私にとって最高の合宿となったのです。

23:55最終鈍行を待つ間に小便横丁のヤキトリ屋へ連れて行ってくれたり、ガード下の今で言うHレスのオヤジと座り込んでトリスをキャップで飲み交わしながら楽しげに話していたり、とにかく破天荒なヒモさんには忘れえぬ思い出をいただきました。

本当に感謝あるのみです。

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あまりにも早く突然な残念な別れは肺がんによるものだそうですが、今年7月に最後に会った時は「タバコちょっとやめてる」と言いつつ私の1箱をガメましたね。
葬儀の際は棺に1箱入れさせていただきました。最後のタバコ持ち・・・

ま、天国にせよ地獄にせよいずれ行きますから(スグはちょっとダメ)また1杯やりましょう! ええ缶ピースも持っていきますよ。

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小倉さんを追悼して

佐藤則秋(1964年卒)


戸隠の小屋で、部屋内から戸袋を塗っていると中から蜂が飛び出して、小倉さんは確か蠅叩きを片手におれの後ろでハッタハッタと励んでおられました。
それを後ろから見ていた董子さんはパパが<ひも>を潰しちゃうんじゃないかと案じられていたそうです。

...笑いながらそう言えばどちらかといえば
蜂の刺しよりも後ろの気が
気になって仕方のなかった虫も殺せない<ひも>でありました。

ランプの下での麻雀抜けていく朝の空

小倉さんはこんなことも話してくれました。
"この前、戸隠をひとりで水も持たずに縦走した。意外にきつかった"...と。
途端に目の前に浮かんでいる針峰群に畏敬の念を抱いてしまった<ひも>でありました。

頬に涙が渇いてゆくその刹那
北の水平線の果てに微笑みが広がってゆく
その蒼白さにその暖かさに66冬
刹那洞に風が吹き抜けて
うっすら震えて
もう何処にも誰もいない

小倉さんほんとうに有難う御座いました。

ひも
04.6.20

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佐藤則秋(ヒモ・64年卒)が亡くなられました

宮崎専輔(1960年卒)


この夏から療養中で、一時帰宅中のところ、昨晩静かに息を引き取られたと、奥様から連絡がありました。59歳でした。謹んでお悔やみ申し上げます。
彼は生涯麻布の山岳部を愛し、山荘にも人一倍愛着を持っていました。痛恨の極みです。
先日(11月30日)福井君と私が病院への見舞いの折り、山荘外壁の塗装は春になったら自分が無償でやりたいと言っていたのに・・・。


何も知りませんで、いきなりこの報に接したまげました。
言葉もありませんが、ご冥福をお祈りいたします。(高野信久、1977卒)


忘年会でお目にかかったとき、少しやせたかな、という気がしていました。しかし、入院していたことさえ知りませんでした。
ひもさんは1年先輩。大学では同じ学校の同学部でした。身近な人が亡くなるとつらいですね。先輩、安らかに。(山田新、1965卒)

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ヒモ君のお通夜

溝口洋三(1963年卒)


悲しいHPの知らせをなかなか受け止められないままお通夜に参列しました。彼がいかに大勢の仲間からから愛されていたかがわかりました。
参列者名・敬称略、小倉夫人とご子息、先輩・近藤兄、小林、福井、宮崎、横田、近藤弟、溝口S38、後輩・林、森、矢部、矢部夫人、井上S44、上領、松宮S45、松宮夫人、鈴木(順)、前田S46、太田(弘)47、高野(久)斎藤S51、蒔田、高野(信)S52、高坂、浜田S56、同級生の油井君S39は、前日アメリカ行きの報告がありました。矢部君のお世話で大勢の仲間と献杯ができました。心よりご冥福をお祈りいたします。


上記に追加と修正です。 S46西原、S47鶴田(上羽)、 S48高野久(修正)、S51永田、S52キジもり、平野先生、増子先生。 (高野、1977卒)

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佐藤則秋君葬儀参列報告、および
佐藤ヒモ君のご逝去を悼む

三島秀介(1958年卒)


佐藤則秋君葬儀参列報告

昨夜の通夜は風邪のため欠席し失礼しました。本日は葬儀に参列、福井君他8名。小生と矢部、斉藤まさきの3名が弔辞を奉げた。焼いた遺骨からなんと長さ30センチの棒が出てきたのには驚き、例の武勇伝の記念碑であった。お清めは、代々木の「南国酒家本店」にて一同ご馳走になる。お別れに皆で麻布の校歌、山の歌、彼が好きだった「琵琶湖就航の歌」を歌い、ヒモを慰め、めでたく成仏を見届けた。彼の姉さん曰く「昨夜の宴会と今日の葬儀で、彼は納得して天国へ旅立ちましたよ」とのこと。麻布山岳部の仲間意識を披露できてうれしかった。

昨夜と本日葬儀に参列された諸兄、ご苦労様でした。

佐藤ヒモ君のご逝去を悼む

彼のあまりの突然な訃報を受け、なんとも言葉がありません。関根君と共の彼の代は一世を風靡した仲間でした。敢えて「ヒモ君」と呼ばせて頂く。ヒモ君の人懐っこい語り口が鮮明に浮かぶ。八ヶ岳山荘への思いは沢山あったと思う。11月30日に宮崎、福井両氏が見舞い、山荘の塗装工事を相談したことは、彼にとってはよき冥土の土産だったかも知れない。そして残念な思いもあったかも知れない。しかし、彼の生き様はそれも許容したと思う。 こころからご冥福を祈ります。 合掌

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ヒモ君の思い出

近藤隆治(1950年卒)


ヒモ君の追悼には少し離れていますが、数かず思い出が有ります。
とにかく人生を楽に過ごし、マイペースで世の中を送っていたことには
皆が認めるところでしょう。羨ましい限りです。
私的なことで一例を上げれば、小生の鎌倉の実家で家の外装を
塗り替える作業をたのんだ所、見積もりでは一週間泊まり込みで
済ませます と言うことでお願いしたのだが、なんと三食晩酌付3ヶ月
居座られ、これにはいささか家族も参りました。其の間に父親が
60年目でやっと たばこを止めて3年目だったのですが、晩酌の時
父親の前でヒモがたばこを パカパカ やるので父親も再びたばこを
吸うようになってしまい家族はカンカン、またペンキを塗る仕事なのに
今日は 天気が良いから と海水浴に遊びに行く始末 これまた家族は
カンカン なんとも言いようが無い憎めない彼でした。山荘も似たような
ことがあったように覚えています。
彼は良く後輩の面倒を見てくれ 人気者でしたが、たまに変な奇声を
上げ仲間を喜ばせる特技があった事も思い出しています。
彼は いろいろ武勇伝を残して行きました。

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