[chronicles]



1953年度(昭和28年4月〜29年3月)をふり返って

近藤隆治



朝日にはえる美しい山肌、果しなく続く青い雲、神秘的な谷、何かをささやく様なこの大自然にみせられたら何もかも忘れて行きたくなる気持は一度この大気を吸った人てなければ分らないであろう。或る時は山肌に頬を寄せて新鮮な愛撫を受け、又或る時ははげしい雨に打たれて何もかも流され清められた様な気持になり、そして幾多の山を登り続けた。しかしこの事をよそに山岳部はつぶれるのではないかと、心配された。当時の事、つまり僕の中学の頃僕の下には誰一人いなかった。上級生からはトレーニングに出ろ!いや室の掃除をやれ!とかガミガミと云われた。僕一人ではとてもやり切れない、もっと同志をざがさなければと各教室を歩いて入部を叫けんだ。これが高一の時であった。この甲斐があってか後に僕の片腕となってくれた神原君が入部し、その後ラグビーの武者くずれが入って来た。大迫、新家、両者も入部して来た。初めて大人数となったのが昭和28年<。>4月といえどもまだ雪の有る雲取山を山岳部員全部で行った。殆んどが同級生で一八名、其の中にはラグビー部の連中も加わり中には気軽に考え或はボストンをもって来るものレインコートを着ているもの等もあった。この時には寒さと雪が一尺も残っており色々の点々の点から難行を極めた。そしく中には靴が悪い為に遅れる者が出た。当日は雪が降り非常に思い出の多い山行であった。その頃から考えると現在の山岳部は夢であったろう。又上級生との連絡が非常に悪かった。そこで僕は山岳部を立てなおす事を心に誓った。僕は丹沢の勘七沢、水無を登り初めたのもこの頃だった。

7月の15日から19日には個人で八ケ岳へ登った。何度行っても何時みても真に天然の美を身にしみて感じ次の希望も新たになるばかりであった。この時は、丁度時期も夏休みの初めでか乗物すべての所がこんざつした。これは夏の合宿のトレーニングと思って行ったのだが台風に見舞れ雨と風の八ケ岳であった。そうして7月25日から8月4日迄夏山合宿にと向う事になった。出掛ける前の準備は非常に忙しかった。或る者は山の大気を全部吸い込まうと、又或る者は健脚にまかせて歩こうとはり切ってA、Bのコースに分れて出発した。そしてAの方のOBは笠原氏が来てくれた。僕達は白根から三伏コースである。Bコースは駒、千丈である(OB松田氏)

僕達は体力も少く荷物が多い為歩く事にこと欠く始末になってしまった。そして二日の予定コースを四日もついやして歩かなくてはならない事になってしまった。始めての合宿のリーダーとしてこの時一番困った事は夜神峠で病人が出てしまった事だ。暑くてしかも重いその上の病人なので、歩く足どりも重く、何か山肌にめり込んでいく様な圧力を感じたが、この時は素晴しい展望で非常に良く御来光が見え、この事によって幾らかなぐさめられた。こんな事をしながらも数日がたった頃、こんな事があった。下級生の一人がホームシックにかかって三伏峠をおりたとき僕達のパーティーから逃げだした。一生懸命迫いかけてつかまえようとしたがついに彼は逃げおおせてしまった。次の合宿からはあまり姿をみせなくなってしまった。この合宿でOBからあらゆる面で指導を受け、まあ一人前の高校山岳部に近づいた。


10月に入ってからは遠足の帰りに那須岳に行き茶臼岳、旭岳に学友と登り楽しんだ。こっちはまだいくらか寒い程であったが早く訪れる紅葉にしばしば秋を満喫して来た。

11月に入ってもう四方の山々の頂に雪がかぶった頃、先輩でしかも早稲田大学山岳部のリーダーをやっていた小倉さんがいることを知り、さっそく指導に来て下される様御願いした。冬山に対するヒントを教えてもらい毎週の様に研究会、講演会を聞いた。合せて山岳部の向上発展のため12月28日?1月3日、富士山に氷雪技術の訓練に出かけた。もちろん小倉OBをコーチとした。白い雪渓に風が吹きまくり其の上なれない為OBに大変に迷惑をかけてしまったが、冬山に対する自信がついた。新しい年を迎えんと富士山に出発した。七合目にテントを張り三日間冬山に対する強訓練を行った。しかし元旦に登頂する筈であったが、風が思ったより強く、頂上には我々の技術では到底行く事は出来ない事を知って断念した。そして頂上にて拝むべく御来光も又のチャンスにして下ったのである。この時の小倉氏以下四名のOBには並々ならぬお世話になつた。もうこの頃は山岳部に入った同級生は五人残っただけであった。1月末日には川苔山に、2月6、7日は二合目スキーに、そして3月には春山合宿として約10日間の予定で八ケ岳に向った。行者にB・Cを張り赤岳の石室にA・Cを置いた。この時には非常に風が強く、その上、温度が低く、A・Cは雪でうずもれた天幕の中では石油コンロもたけない状態になってしまった。従って撤収の時は非常に難行を極め時間がおくれ午后の風でまばたきさえ凍りついて出来なかった。張ったテントはばりばりに凍ってたたむ事が出来ない状態であった。しかしこの時OBといっても三年の松田、伊藤、内藤の三氏がついていてくれたので心強く大助かりした。いまだに感謝している。

ここで僕はリーダーを譲ったのであるが、僕の責任はまだつづいたそれは麻布高校として一つの大きな目的を目指せとの事をOBの中村さんから云われた。それは北アルプスにある3月の鹿島槍へ行く事であった。それから一年間二回、三回と偵察し経験を重ね研究を続け身をもって山々にあたったのだ。ついに忘れる事の出来ないあの日、そしてあの頂上!鹿島槍東尾根を克服するに至った。

今日振りかえってみると常に良くチーム・ワークが出来でいた事。それから山に行かない状態にあってもトレーニングだけは欠く事はなかった。学校にあっては学校の屋上からロープで下る練習等を行った。この強力訓練が非常に夏山又冬山に役立った事は云うまでもない。僕がリーダーになって始めて身をもって知らされた事は、つまり山岳部に入った当時にはトレーニングがいやで良く教室まで迎えにこさせるという時代があった。しかしトレーニングをするという事、又失敗の経験を教えられる事が如何に重要問題であるかを考えさせられた。こうしてかえりみて始めの雲取山から思えばこの山岳部が如何に発展進歩して来たか。一つにはOBのコーチ代表の小倉さんの尽力のたまものに外ならない。又他のOBが力を入れて下さった事にある。

そして次々と大きな山を、バリエーション・ルートを5月の谷川を又12月の富士山をと、あらゆる方面から経験と技術を生かし前よりよき山、一歩進んだ山をえらび、親しみ、美を感じつつ冬山、春山を満喫する事が出来た。

この様な労苦がむくいられてか「毎年の5月の文化祭には山岳部は好評を博した。山岳部のトレーニングから始まってあらゆる思い出の含む数多くの山々の写真を学校の廊下全部にはりめぐらし、又マナスル征服者の日下田さん、アコンカグア征服者の塚本さんの山のベテラン両者をお招きして公演会、福原健司氏の山岳映画会を催した。

以上のように先輩の方々や部員の皆さんの協力を得て何事もなく発展進歩したのであります。

今でも続いているマラソンは僕等の代からのである。全く嬉しい事である。そしてこの上もっとも素晴しい成長を祈るのみである。

僕は山に登りたいというよりも山に登って見える山、自分の登っていない山が登らなくてはと気になる様な気がして登りたくなる。そして僕にこれからも登り続けるだろう。

この様に僕等の時代に一大革命が麻布学園山岳部に起ったのは皆、今は病床である小倉茂暉OBが指導し我々を持って行ってくれたから現在でも事故が無く無事学校山岳部として山に力を入れる事が出来るのだと思っている。

一日でも早く良くなり、良いコーチを受けられる様に部員と共に祈る者である。(1958記)





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