[chronicles]



1954年度(昭和29年4月〜30年3月)をふり返って

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佐藤信安



月日のたつのは早いもので、ついこの間山岳部に入ったと思っているうちにいつのまにか卒業してすでに一年半、OB会員として現役時代を顧りみるといまさらながらに高校山岳部の在り方に亦その運営に容易ならざるものがある事を痛感する。当初あれもしよう、これもしようと考えていた事の何分の一が果して足跡となってるかを想い出して見る時我々の時期は色々の点において部の一大転換期であったと言っても言い過ぎではないと思う。栄枯盛衰は世の常とは言い乍ら活動が盛んだった反面危機に直面した事もあり、一事のゴタゴタで退役したかった程つらい事もあった。当時山岳部はその性格においてワンダー・フォーゲル的なものと大学山岳部を前程としたスポーツ・アルピニズムの部とを合わせた、どっちつかずの部から後者へと移りつつあった。これは確かに新しい部への曙光が射し始めた事は事実であるが反面この転換によって当時(29年3月)七人程いた中学以来の同級部員がほとんど、また一級下の部員が数名ぬけていった事は未熟な僕がリーダーとして選ばれた事と合わせて、やっと上昇を始めた部を弱体にしてはと何か非常に責任と困惑に身のひきしまる思いだった。

当時部員は受験準備に入った高三をのぞいてわずか五人、合宿経験のある者は僕一人という散々な状態だったのだから先輩諸氏からみればまるでたよりない存在であったろうと思う。新学期そうそう開かれた総会で風間新部長先生のもとに出発した頃は毎日の様に高三部員の間を、あれやこれやと聞き歩きながら部員募集のポスターを書き計画表を眺めては下級生の教室へ「山岳部え来たれ!」の勧誘演説によく行ったものだ。今になって考えるとなんともさびしい状態だった。4月の第一回部員募集ハイキング会、5月連休の奥秩父とまがりなりにも軌道に乗りだした頃には部員も二〇名近くなり部室もしだいに活気をおびてきた。昨年来の部則を完成し部員証を新らしく交付したのもこの頃の事だ。出発当初あいまいだった各係を決定してとかく怠り勝ちだった用具、図書台帳の整理をし部室がなんとなく気持がよくなってきたのも神原氏の助言があっての事だった。

三年ぶりで開かれた創立記念の学園文化祭には近藤氏の提案で山岳部主催の女学校めぐりマランン大会が盛大に開かれ以後これが学園文化祭の行事の一つになっている事は誠にもって喜しいかぎりだ。講堂では毎日新開社の御好意でマナスル第一次登山隊のスライド、教室では三階南側の二教室にマナスルの装備展、写真展それに菅原の家から沢山の木を持ちこんで部の夏、各二張の天幕を張り器具展、写真展、活動報告、我が国の主な山脈の地図を用意して登山相談所を開き中村太郎先輩から珍らしい山岳図書をと豪華版にかざりたてテントの中でヨーデルとしゃれこんだから相当なものだった事はおしはかれると思う。十日後の学園新聞では勿論入気投票の第一位にランクされ山岳株がグンと上ったのも一人で飛び廻ってくれた近藤氏の力であると今もって感謝しているしだいである。

小人数の部から 30 人近い大家族になると山に対する考え方も登り方も種々雑多で中にはずいぶん変った者もいたがそれでも夏山に備えて研究会を開いてはなにかとやっていた。当時は主に山岳講座や登山技術等がつかわれていたと記憶している。初夏に入り休日のたびに沢登りに出かけたが、まだチームとしてはあまりまとまったものだとは言えなかった。岩登りへの興味がだんだん強くなってきている折柄、ザイル・テクニックの練習に毎日の様に屋上からザイルをたらしては校舎の壁でアプザイレンをやって今はなぎ井熊教頭をふるえあがらせたのも想い出すとつい昨日の様な気がする。

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