[chronicles]



1952年度(昭和27年4月〜28年3月)をふり返って

青木義明



高二になって僕がリーダーを指名されてしまった。どうも自信はなかったが引き受けてしまった。鹿島がサブ・リーダーだったので適当に楽しむことができた。その鹿島と伊藤が沢登りの面白味を僕に教えてくれた。

最初は勘七だった。夢中で登るうちに、つめて来てしまい、花立の手前に出てしまった。面白かった。9月と10月に水無へ行っている。何しろ、あまり危なくないし楽しめるので同じ所へ何回行っても行く度に始めてのような気がする。

夏前の話題はやはり夏山のことである。南アの縦走は終った。北なんかちょろいんだから最初から北アを縦走しちまおうではないかということになって計画が練られた。伊藤と後の方へ並んで座っていたので、つまらぬ授業の時は二人で一生懸命、食糧計算をやった。ここに大変なことが起きた。前から陽性であった僕ともう一人(誰だか忘れた)を除いてツペルクリン反応が皆、陽転してしまったのである。そして心配だから行かないと云いだした。それで「去年、荒木さんは陽転したが山へ行ったら直ってしまったぞ」などといって何とか説きふせようと思ったが多勢に無勢、ついに夏山は中止かと思ったが、もともと好きな連中のこと、しばらくすると又行くことになった。ただ一人だけ「両親が....」というので、二、三人ででかけていって、「二日目に熱がでたら、ここへ降る。三日目にげがをしたら、ここを通って....」などと命の保証までして引っぱり出してしまった。

さて、その結果は一番弱いと思われていたC班の(烏帽子?槍)だけが目的通りやりとげ、縦走班は最初の三日、白馬で降りてしまって、針ノ木では我々は待ちくたびれてしまっていた。そして僕の弱気からB班に合流させてしまって黒部へ降ってしまった。ただでさえ遅れているところC班の上げた米が烏帽子に残されたので、五色ケ原での朝食は、まずい飯にしようというので味噌をこってりと入れたおじやを作ったのだが前の日からの減食で餓鬼道になっていた我々はうまいうまいと食ってしまって出発前から腹をへらしてしまった。そして、のろのろと仕度を始めて出発はすっかり日が上った9時すぎになってしまい、内藤と僕が立山温泉を経て降ってから一ノ越まで空き腹をかかえてガンバッタけれど、ついに降ってしまい甘くみた為にひどい目にあってしまった。

よしそれでは、というので冬は富士をということになり、11月の試験が終るとその、中村と二人で下調べに出かけた。初めてなら御殿場の方が良いというのであったが麓の道には恐れ入ってしまった。長い上に寝不足のままやって来たのだから十分位歩いては横になってしまい、七合目に着くや中村のシュラフ・ザックを出して二人で寝てしまった。御殿場口は一合目から砂つ原だった。そして、傾斜もゆるいので冬はここからということになって引き返した。

1月、出発真際になって、僕は風邪をひいて熱を出してしまい伊藤、長谷川、松田の三人で行くことになった。上では長谷川が腹の具合を悪くして七合から上は伊藤と、松田で行ったのだが九合目で左へトラバースすると、急に風が強くなり伊藤はスリップしてしまった。後でこんな風に云っていた。「あつ、いけねえ、と思った時にはピッケルをさして止まってたよ。それで上を見たら、あわてて松田が確保しかけている所さ。自分で止めていなかったら二人ともおロクだったな」

こんな風に失敗ばかり重ねていたけれど、最後にようやく花を沿えることができた。春の仙丈、駒だった。この手は雪の少なかったことと天気の良かったことが幸いしていたことも否めないが今度こそは、今年こそはと皆で慎重を期したからだと思っている。(1958記)





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