[chronicles]



1974年度をふり返って

三品裕司



序章

春合宿に常念を-これは夏合宿の前頃から僕らの今年の目標となった。そして一次、二次偵察を出して概念をつかみ、後は直前の偵察と具体的準備を残すのみとなった2月8日その目標は断念せざるを得なかった。ある部員が、現状では春合宿常念は無理だ、全員で行けるような、チームワークを育てるような合宿をやる方がよいのでは、といい出した事に起因している。


反省

  1. 日常の活動が低下していた-49年度を通してトレーニングは、ぼくが九割以上出ていただけで残りの者は半分もやらなかった。1月には林先輩の御見舞に行き、合宿について意見を聞くなど、盛り上がりを見せたが、2月合宿を延期したあたりから各自勝手な事をやり出した。
  2. 全員(高一、中三)で行なった山、特に雪山が非常に少なかった。
  3. 計画段階での合宿に対する態度がいいかげんだった-時期を逸するとまずいというのが偵察を出した理由の一つである。(2)(3)とも、本気で合宿に臨んでいなかった面があったのではないだろうか。
  4. 東南稜核心部を見ていない者がいる-第一次偵察でB隊だった者である。彼らが悪いわけでは絶対にないが、二次偵察には来てほしかった。彼らの頭の中には未だ見ぬ物への不安があったに違いない。
  5. 非戦力としての高野の存在-彼はオスグッドシュラッテル氏病(成長期の男子に多くヒザの関節において脛骨中枢骨端のくちばし状突起と脛骨粗面とのゆ合骨化過程の障害で圧痛、運動痛を訴える)になり、仙丈以来、山行に参加できなかった。それで2月6日に「合宿には行きたいが足はどうなってんだかさっぱりわからんし、自分が参加することで、行先のグレードが落ちたりしたら悪いので春は参加を見合わせる」といい、直接討議には加わらず傍観していた。しかし蒔田は高野も行けるような合宿を組んで、基礎固めをしたかったのである。
  6. 僕らは谷間の世代である-つまり隣接する年代がいないか、それに等しかったのである。これは、僕らは部の上級生としての先輩から直接教えられていないという事であり、また大合宿をやろうとする時、共に登りあるいはサポートしてくれる後輩がいないという事でもある。独学で部を運営してきた僕らは、4月に三年下の後輩が入部した時、扱い方に困惑し、部における活動の半分以上を彼らのために使ってしまったのである。下級生を指導しながら自分らの目標を追う難しさと、毎年絶える事なく中一が入部する事の大切さを痛感させられた。
  7. リーダーとしての僕が未熟だった-斉藤昌毅の引退がはっきりせず、いつのまにか僕が、リーダーシップを取っていた。やはり一年上というのは絶対的な利点であり、ぼくは同輩である仲間に命令を下すのにまだまだ迷いがあった。更に責任感から山行に呑まれて、以前より柔軟性を失なっていた時期も一時だがあった。みんなの意見を聞き、理解する、そこまでは良いが、まとめ、引っぱる点に不安があったのだろう。だからチームワークという問題が出てきたのだ。
  8. 合議制はなれ合いだ-これは後日林OBを見舞に行った時、鈴木OBに指摘された事である。誰か反対者が出ると結局日和る方向へ行ってしまうというのである。林OBは、大学山岳部とは違い、参加者一人一人が納得しあうものとして合議制に賛成のようでおられたが日和る方向に納得するというのが鈴木OBの論である。山岳部創立の頃とは世相も価値感も登り方も変って来つつある。このへんで、リーダーの役割と合議制という運営形態についてじっくり考えねばなるまい。

合同合宿

問題は片づいたわけではなかった。

春合宿をやるのかやらないのか、やるならどういう形にするのか?

田辺-合宿はやるべき、できれば二回
三品-中学と高校、中学の佐々木のためにも
蒔田-全員で行けるものを、仙丈はどうか
高野-中学合宿だけでよいのでは?
藤森-時間ない、出来ない、やる気ない
佐々木-はい、皆さんにおまかせします

結局15日間の討議の末、春は中学高校合同で行ないチームワークを固めるという事にし、佐々木のためにはOB同伴で個人山行で八ヶ岳へ行き教え込む事になった。

ところが合宿のフタを開けて見ると無惨だった。準備期間は、ほとんど僕と、一人の中一とでやったようなものであった。参加者については、一名しかいない中二が親の反対で参加断念、七名いる中一も、一人は家庭の事情、一人は左膝関節挫傷、一人は心臓発作、一人はボーイスカウトの都合、一人は家庭外の都合で直前取消が相次ぎ結局二人しか来なかったのである。


これから

僕らは、この一年間、常念岳東南稜における春合宿を目ざし、そしてかくの如く途中で挫折した。2月のこの時期にここまで意見が食い違ったことが致命的であった。短い期間であったけれど、いうべき事はすべていいつくした。できる限りの事はしたのである。

こうなる事は必然であって、それに蒔田が一早く気付いただけのことだったのかも知れない。しかし常念の失敗は僕らに数多くの教訓を残した。僕らはもう一つ仕事をせねばならない。この教訓をいかし、後輩に二度と失敗を繰り返えさせない事である。4月からは、当然の事ながらトレーニングと研究会をガッチリやっていく事を確認し合った。常念の失敗の意義は、これからその真価を間われるのである。「三品のような奴ばかり五人もいたら、行けただろう」という蒔田の言葉の意味を考えながら、翌昭和50年度に期待をかける。


(1976年記)




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text by y.mishina. photo by h.uwaha.

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