[chronicles]



1989年度をふり返って

梅村 裕



前年度冬合宿終了時点で南谷、飯村両氏が引退し、当時中二の私がリーダーを引き継いだ。部員は私、永井(中二)、宮島、福井(中一)の中学生四人となった。このようになることは私たちの学年が入部した時点から分かっていたことなので、かなり早い時期からの係活動や雪山の訓練が上級生から入念に行われた。また好き勝手にやれると調子に乗る気持ちも含めて、自分たちでやっていくんだという覚悟と意気込みもあった。だが実際新体制が始動してみると、そうした意気込みは、空回りするばかりで、山に行けば自分たちの思い込みの安易さと力の無さを思い知り、結局できたことと言えば、先輩たちの過去の山行を、縮小再生産して、低レベルだろうが何だろうがとにかくコンスタントに山に行くということだけであった。年間計画といったものも、立てるには立てたが、何かの目標に向かっての成長過程を意識したようなものではなかった。

そのような暗中模索の状況の中で、夏合宿で朝日連峰縦走、春合宿で積雪期の甲武信岳登頂を果たせたことは、私にとっては印象深い。前者は、後に退部することになったが、日高、廣田という中三のメンバーが多く、安定したパーティー構成であったことと、実質的にはほとんどリーダーの立場で私たちを引っぱり上げてくださった小沢、小田両OB、増子先生のサポートに大きく助けられたが、どういう形であれ、合宿らしい合宿を自分たちの名の下にできたということに大きな充実を覚えた。また後者は悪天候、1メートル以上の(私たちにとってはかつてない)積雪、さらに体力不足、準備の不手際といった、当時の私たちに起こり得るあらゆる悪条件が揃い、四泊のうち二泊をビバーク(予定地他幕営)で過ごすという難儀な合宿であったが、山の厳しさと私たちのひ弱さを思い知らされる貴重な体験であった。そんな中で風と雪が吹きすさぶ甲武信岳の山頂に立てたのは、大きなひろいものであるようにすら思えた。

部の運営に関して触れると、やはりこれも暗中模索の時期であった。リーダーを引き継いだ時点で、中一と中二の四人のメンバーの中では、体力も経験もたいした差はなかった。(中一の宮島が一番体力があったぐらいである。)山の上でも普段の活動でも、計画をたて決定を下すのは確かに私の仕事であったが、上に立つ者としてそれらしい顔をするだけの説得力や威厳は私にはなかった。中一の村松が入ってきてもそれは変わらず、先輩、後輩といった関係に基づく秩序は、この時期全く壊れてしまっていた。だが、とにかく部が存続して次につなげることができたということ自体が、今にして思えば幸運に思える。そんな一年であった。

『レポート』54号参照(1996年記)




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